「合気道は敵を作らない武道」はっぴいえんどにもみられる流儀?ブッダ・バガボンドカフェ5月25日雑感

久々の更新、昨日は毎月25日開催のブッダカフェにて「バガボンド・カフェ」を行いました。
参加者は総勢最終的にはわたしを含め7名、いつも通り顔のよく見える範囲の集まり。
いつもはブッダ・カフェとして開いている場を借りきり、開催させてもらいました。
といっても、いつも通りうだうだ話してしまったのですが、3年がかりでやっと本題に入れた気がしました。
最初にこのテーマ、憲法をめぐる話でこのカフェをやったのはもうかれこれ3年前。そのときは憲法ではなくて、日本人について、というタイトルでわたしが学生時代に読んだ『成熟と喪失』という評論のなかの小島信夫の小説『抱擁家族』を話題にしました。
それから第二次安倍内閣成立から改憲論議が活発になって、世の中の雰囲気も戦前じみてきたということで、憲法をテーマにし、勉強してみようと思い何回か間をおいてやってきたわけですが、今回は前回から1年近く間があいたせいで、間が抜けるとはこのことか、と痛感しました。
で、当初の問題意識を思い出す意味もかね、わたしにとって「憲法」とはなにかについて考えたことを主に話させてもらいました。

それは、言葉にしていままで考えたことはなかったことで、つまり率直に言えば、わたしはたぶん憲法と真剣に接したことはいままでなかったかもしれない、と思わざるを得ません。
そして、知識的なこと、立憲主義とか三権分立とかをあらためて学ぶことが憲法と接することではない。
たぶん自分は学生時代から、一貫して、憲法ということばから派生する「戦後民主主義」的なものから、身をひいてきた、意識して遠ざかってきた、と思いだし、それがなぜかをあらためて考え始めました。
そんなことのなかで、ずいぶんあとになって読んだ加藤典洋さんの昔書かれた『敗戦後論』にかなりそのわたしの感じた憲法に向かう対し方に、すごく近いもの共感するものを感じ、たしかこのカフェの三回目くらいからは、この本を中心に話してみました。
もう20年も前の本ですが、近年では白井聡さんの『永続敗戦論』にも取りあげられるほど、いまの状況も照らし出す深度と射程を持っている優れた評論だと思います。

まぁ、実際の昨日のカフェでは主にわたしの若い頃習った社会の先生が熱心に憲法の授業をしてくれたことから、その後文学者の反核声明なるものへの当時の知識人たちの相反する意見に感じ入ったこと、理想と現実この二つを両方抱え、複雑に語る文学の方法に魅せられ、政治的な意見は一面的で、自分がそうした意見表明を自分に禁じたというか、気がついたらできなくなっていたこと、をお話したつもりです。
近年、内田樹さんやこの加藤さんらの文学と政治の橋渡しを試みるかのような言説に魅了され、(かぶれたともいう)わたしは再びこの古くて新しい問題、政治と文学の問題を考え始めたのかもしれないです。

それはさておき、タイトルにした合気道の極意、「敵を作らない」は、参加者のお一人が合気道の修行者で、少しその内容の話(カフェにずっと参加されている方で気功の先生もおられ、その話になったのですが)になったときうかがいました。
わたしはその言葉をたぶん内田樹さんの著作で読んでいた記憶がありましたが、本当にそうなんだなとあらためて知りました。
先日、はっぴいえんどの曲で、街の風景が変わる話を書きましたが、たぶん彼らの音楽の根っこに、この「敵を作らない」という古来の日本武術の基本作法が流れているのではないか、と思いはじめています。
日本が戦後持った憲法のおかれ方、そこには「ねじれ」があり、それが故に護憲派改憲派が不毛な戦いを繰り広げてきた、それを克服するための処方は、その二つに分裂したかのような人格を統合し「われわれ」という主体を立ち上げるべきだ、これが加藤さんの『敗戦後論』のキモでした。
ところが、いま行われようとしている改憲への動きというのは、そうした主体を立ち上げる努力を放棄し、対外的に改憲派を勝利派として国民の代表とし、反対するものにその多数派の意見でねじ伏せる、かなりそういう意味では、古来の拳法の流儀とは反する、やり方と言うしかありません。
これは護憲派にも言える。ではその「われわれ」とはいかなる意味合いを持つ主体でどうすれば立ち上がるのでしょうか。
また続きをカフェができたらいいなと思います。
参加してくださったみなさん、お忙しいところありがとうございました。