梅崎春夫『桜島・日の果て』とNHKラジオ「飛ぶ教室」 

久しぶりに書きます。(PCでまともに書くのははじめてです。)

 

なかなか書く気になれない状況が身辺に発生しました。これについては、いまは触れずに(もし、面と向かって、話す場合なら、それを言わないことは、不可能でしょう)、いま書けることを書こうと思います。

 

今朝、夜勤明けで、朝方ふとんに入り、身体がなかなか温まらず、寝れない中、最近読んでいる梅崎春夫のたぶんデビュー時の短編小説集、『桜島・日の果て』のなかの「蜆(しじみ)」という作品を途中まで読みました。

 

この文庫は、かなり前に古書店の店頭ワゴンで50円で売っていたのを買ったまま、ほったらかしにしていて、昨年くらいから、少しづつ読み始め、最近読み進め、「日の果て」「崖」と読み、つづいてこの「蜆」に進んできました。

 

わたしは、かなり読み方が遅く、一冊読み切るのに、かなり時間がかかるほうです。しかし、何冊も同時に本を読んでしまう傾向があり、進みにくい本は、つまみ食い程度で、忘れ去られてしまいます。

 

ただ、最近、本を読むことも、しばらく、できなくなっていました。いまようやく読みはじめて、この梅崎春夫の短編集と村上春樹の『ねじ巻き鳥クロニクル』、それとときたま気が向けばジョン・アップダイクの短編集『同じ一つのドア』の3冊です。

 

『ねじ巻き鳥』は、3回目なのですが、すこしいわく言い難い理由があり、読んでいます。アップダイクの小説は、サリンジャーとともに、大学時代食い入るように、読んだ作家で、それだけに、いま読んでみると、当時もっていた傷口に塩をすりこまれるみたいな、物理的ともいえる痛さを感じます。

 

いずれにせよ、新しく何か、読んだことのない小説を読みたい、という「前向き」な気持ちにはなかなかなれません。

 

梅崎春夫の小説は、実ははじめてなのですが、途中まで読んで、読み忘れていたのを、読みなおすきっかけがありました。それは、NHKの中波で、4月からはじまった高杯源一郎の『飛ぶ教室』という番組で、紹介された荒川洋治さんのエッセイのなかで、ちらっとその名前が出ていたからです。(たしか、「文学は実学だ」という、タイトルのエッセイの中でした。)

 

この「飛ぶ教室」は、ご存じケストナーの同名の小説からとられているタイトルで、以前から、高橋源一郎さんは、おなじNHKの中波の午前の「すっぴん!」で、コメンテーターとして毎週レギュラー枠があり、わたしはよく聴いていました。

 

そのなかに、「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーがあり、その最終回で、先月このケストナーの『飛ぶ教室』を取り上げていました。

 

荒川洋治さんのそのエッセイは、かなり刺激的な文章だったので、紹介したいですが、ソースがわたしにはないので、いまはできません。もしかすると、NHKのHPに『飛ぶ教室」のサイトがあり、そこにいけば、見たり、番組を聴けるかもしれません。

 

それはそうと、わたしは、「文学は実学である」ことを、いま、感している、まさにその渦中にいます。村上春樹も、梅崎春夫も、このわたしの陥った状況というか、世界(以前あった世界とは、まったく違う世界に来てしまった実感があります。)で、生き延びるための、何か大切な情報を、そのなかに秘めています。それは、豊かな、感じです。

 

世間は、新型コロナウイルスのことで、わたしの個人的な体験と機を同じくして、様変わりしつつありますが、まったくの偶然で、わたしはいま、誤解を恐れず言えば、「コロナどころの騒ぎではなく」、ただ、静かに考え込んでいるだけです。