スペイン風邪を書いた大正時代の少女の日記(2020.5.25京都新聞)

久しぶりに夜勤に出た。

それでかなり今朝、午前中寝てしまった。

本来、仕事に行くのに、久しぶりとは、ナニいうとんねん、ていう感じだが。

しばらく、コロナ感染対策の波が、わたしのバイト先にも訪れ、出控え、兼、私事多忙?につき、休ませてもらっていた。

その私事について、あまり人には伝えないようにしていて、変な書き方をここでしてしまった。

先日、前の職場の知人から、なにか勘づかれ、お見舞いのメールをいただいたので、近況を書くと返事した。

むかし、父親がちょうどいまから25年前に他界した。

そのときも、同じような感覚だったろうか。もう忘れてしまった。

しかし確実にそのときとはなにもかも変わった。それはやはり、あり、しかしこのことを、この場でなかなか書けそうにはまだない。

いま、ここに、書くことのできることはひどく限られていて、それは一言でいってしまえば、わたしは、母が亡くなるまでずっと、自分について、まったく気付かなかったことが、あるということだった。

それは、人間は、その人が話したり書いたりする、表面的な見かけに関わらず、時折、内心では、ものすごく深い悲しみがあること、それは決して表からはわからないということだった。

そのことをわかっているようで、全然わかってなかったといま思う。

前回のブログを読んで、「落ち着きましたか?」とメールをくれる知人みたいな人は、尊敬に値する、希な人かもしれない。

(直接お伝えできていず、すみません)。

いったい何を書いているのだろう。

日記なのか半日記というべきか、ブログというのは、近況を書くつもりが、単なる(内容的にはつまらなくないと思う)感慨のみを記すこととなってしまった。

お詫び?に、今日の特筆すべきことをすこし書きたい。

今日5/25付、京都新聞の一面に、なんと、知人が紹介されていた。

見出しは「スペイン風邪 克明の12歳の日記」。

知人が住職をしているお寺に、大正時代に女学生だったご親戚の、当時書き記されていた日記が見つかった。

そのなかに当時流行ってたくさんの死者を出したスペイン風邪の記述があることを、知人が発見し、貴重な歴史的な史料として、見直されているとのこと。

ちょうど100年前の1918年頃、スペイン風邪の全世界パンデミックで多数の方が亡くなった。だがその記録がなぜかあまりないらしいのだ。

わたしはつい最近、前回ここに書いた、NHKのラジオ番組「飛ぶ教室」で、DJをつとめる小説家、高橋源一郎さんが、そのことに触れていたのを思い出した。

記事によると、スペイン風邪は、日本の大正時代、1918年10月に流行したとされている。ところが、不思議と書き記したものが残ってなく、当時出たジャーナリズム的な刊行物にも見当たらないらしい。

源一郎さんは、「忘れられた災禍」だとラジオで語っていた。

一番の原因は、おそらく日露戦争直後の「勝利」に酔った世相にかきけされたというもの。

もうひとつは、ジャーナリズムのあいだで言論統制的な隠蔽が行われたのではないかというものだ。

その点でも、新聞に紹介された、12歳の少女らしい視点で書かれた日記に登場するスペイン風邪は、いまコロナの世界的なパンデミックのなかで、貴重な輝きを放っている。

なんとこの少女が、わたしの知人のTさんの大伯母(お祖父さんの姉)であったという。

今日Tさんと、流行りのオンラインで話す機会があり、それを聞き、急いで新聞を買いに行った。その大伯母さんの写真とTさんの写真も掲載されていて驚いた。

いろんなことがあるものだ。

梅崎春夫『桜島・日の果て』とNHKラジオ「飛ぶ教室」 

久しぶりに書きます。(PCでまともに書くのははじめてです。)

 

なかなか書く気になれない状況が身辺に発生しました。これについては、いまは触れずに(もし、面と向かって、話す場合なら、それを言わないことは、不可能でしょう)、いま書けることを書こうと思います。

 

今朝、夜勤明けで、朝方ふとんに入り、身体がなかなか温まらず、寝れない中、最近読んでいる梅崎春夫のたぶんデビュー時の短編小説集、『桜島・日の果て』のなかの「蜆(しじみ)」という作品を途中まで読みました。

 

この文庫は、かなり前に古書店の店頭ワゴンで50円で売っていたのを買ったまま、ほったらかしにしていて、昨年くらいから、少しづつ読み始め、最近読み進め、「日の果て」「崖」と読み、つづいてこの「蜆」に進んできました。

 

わたしは、かなり読み方が遅く、一冊読み切るのに、かなり時間がかかるほうです。しかし、何冊も同時に本を読んでしまう傾向があり、進みにくい本は、つまみ食い程度で、忘れ去られてしまいます。

 

ただ、最近、本を読むことも、しばらく、できなくなっていました。いまようやく読みはじめて、この梅崎春夫の短編集と村上春樹の『ねじ巻き鳥クロニクル』、それとときたま気が向けばジョン・アップダイクの短編集『同じ一つのドア』の3冊です。

 

『ねじ巻き鳥』は、3回目なのですが、すこしいわく言い難い理由があり、読んでいます。アップダイクの小説は、サリンジャーとともに、大学時代食い入るように、読んだ作家で、それだけに、いま読んでみると、当時もっていた傷口に塩をすりこまれるみたいな、物理的ともいえる痛さを感じます。

 

いずれにせよ、新しく何か、読んだことのない小説を読みたい、という「前向き」な気持ちにはなかなかなれません。

 

梅崎春夫の小説は、実ははじめてなのですが、途中まで読んで、読み忘れていたのを、読みなおすきっかけがありました。それは、NHKの中波で、4月からはじまった高杯源一郎の『飛ぶ教室』という番組で、紹介された荒川洋治さんのエッセイのなかで、ちらっとその名前が出ていたからです。(たしか、「文学は実学だ」という、タイトルのエッセイの中でした。)

 

この「飛ぶ教室」は、ご存じケストナーの同名の小説からとられているタイトルで、以前から、高橋源一郎さんは、おなじNHKの中波の午前の「すっぴん!」で、コメンテーターとして毎週レギュラー枠があり、わたしはよく聴いていました。

 

そのなかに、「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーがあり、その最終回で、先月このケストナーの『飛ぶ教室』を取り上げていました。

 

荒川洋治さんのそのエッセイは、かなり刺激的な文章だったので、紹介したいですが、ソースがわたしにはないので、いまはできません。もしかすると、NHKのHPに『飛ぶ教室」のサイトがあり、そこにいけば、見たり、番組を聴けるかもしれません。

 

それはそうと、わたしは、「文学は実学である」ことを、いま、感している、まさにその渦中にいます。村上春樹も、梅崎春夫も、このわたしの陥った状況というか、世界(以前あった世界とは、まったく違う世界に来てしまった実感があります。)で、生き延びるための、何か大切な情報を、そのなかに秘めています。それは、豊かな、感じです。

 

世間は、新型コロナウイルスのことで、わたしの個人的な体験と機を同じくして、様変わりしつつありますが、まったくの偶然で、わたしはいま、誤解を恐れず言えば、「コロナどころの騒ぎではなく」、ただ、静かに考え込んでいるだけです。

雪 星野源「そして生活はつづく」を読む

今朝雪が降った。わたしの家はかなり北にあるので、うっすらと一体に雪が積もっている。とても寒い。

(写真はもう雪がとけてしまった昼に撮った。山に少しだけ残っている。)

今年の冬はえらく暖かい日が続いていた。

だが、やっとというか、今月に入り、6日にも雪が降った。

この時はたしか夜中から降りだし、うっすら積もった。その後昼まで降り続いたが、積もらなかった。

この冬最初の、やっと降った雪だった。

わたしはちょうど夜勤から帰りしなで、どんどん降ってきて街路や電線やら辺りが白く化粧されるのを見ながら帰ってきた。

今朝の雪は、朝方から降り始めた。が、ちょうど帰ってきたとき降り始めた。

そのときは、降り方が「ちょろく」、積もるとは思わなかった。朝起きたら真っ白になっていた。

さすがに冬だ。先週10度台の気温が続き、隣の家の梅が満開になっていた。(写真)

春先を思わせたが、冬がまた来た。

これから、そうやって、何度か冬がぶり返し?、季節が入れ替わってゆくのだろう。

また今年は、昨年末からのコロナウィルスの脅威にさらされ、変な気配が広がっている。少なくとも、わたしのバイト先では、お客さんが「町に人がおらへん」とぼやいている。お客さんはタクシーの運転手である。

いちばん気を付けないといけない職種だと思うが、マスコミの報道を見てか、特に夜の繁華街はガラガラになっているのだ。

暇だろうが、その方がいい部分もあるかもしれない。

ちなみに母はやっと退院して帰ってきた。お腹に短いチューブをつけて、、。

(細かなことはまた書きます。)

先日BOOK・OFFで、星野源の本を買ってきた。彼がテレビで人気者になったのは、かなり前なのに、なぜかいま、かなり前に出た本の文庫化をよんでいる。

(ちなみに、星野さんは本のなかで、「自分は本やCDは著者に印税がちゃんと入るので、新刊で買う」とまっとうな見識を述べていたが、古本で買ってしまい、ごめんなさい、、。)

まだ彼がテレビで大々的に有名になる直前、たぶん10年くらい前、わたしは彼の単独ライブのフライヤーを見たことがあった。

レコード屋かどこかでもらったのだ。かわった名前だと思ったのを覚えている。

芋虫みたいに背を丸め、ポーズした全身を横から撮った写真だった。変わった、インパクトのあるフライヤーだった。

本の方は、かなり面白い。文章がうまくついつい読ませてしまう。シンガーソングライターでミュージシャン、舞台俳優、コメディアン?、TVドラマ・映画俳優、多くの肩書きを持ち、マルチに活躍するタレントでありながら、この文才があるとは。

ミュージシャンで文章やさらに小説も書く人、川上未映子がそうだったと思うが、時々ある。

古くは中島みゆきさだまさし等も小説やエッセイを出していた気がするが、あくまで、余芸的な感じであったと思う。

だがこの人の文章は、余芸というレベルをはるかに越えているように思われる。

彼は、近い将来、小説も書くようになるのではないだろうか。なんとなく、わたしは、彼の文章を読んで、五木寛之を思い出した。

五木さんは、小説を書き出す前、また書き出してからも、職業的作詞家だったように思う。

彼も、デビューのときは、だからその「当時」の、マルチな才能の持ち主だったろう。(ただ作詞家で直木賞をとった人に山口はるみがいて、わりとあるパターンなのかもしれない。たしか阿久悠さんも小説を出していた。そういえば松本隆も)。

逆に五木寛之さんも、もしいまならシンガーソングライターであった可能性は高い気がする。

つまり、昔は音楽業界は、分業が主流だったが、いまの環境がインターネット配信や録音機材の発達で、一人弾き語りの歌で十分売り出せる時代になってるのだ。

ひとりで全部完結する。

それがいいのかどうかはわからないが、やはり「時代」なのだろう。

実際にはプロデューサーやいろんなスタッフがいて、後支えしていても、それを表には見せず、ひとりでマルチなタレントとして活動する。もちろん、その才能や努力やらもろもろの要素があっての話なのだが、そのマルチ性に、もっとも時代の刻印を感じる。

実際、人はいま、ほかの時代よりもっとも、ひとりでがんばる、あるいはがんばらねばならない、状況にある。

もがき苦しんでいて、なにを隠そうわたしもそうだが、星野源は、まさにそういう時代がつくった、ある意味象徴的なヒーローであると思われる。

それが彼の人気の秘密なのではないか。

これからますますその技量を深めるのか、さらに分野を広げ、マルチに活動するのか。

プロデューサーになったり、劇団作り?映画監督?なんでもできそうで、やりそうだ。

未来はまだ見えないが、さらにはばたいていってほしい。彼に力をもらってる人は、まだまだ多いように思われる。

ブッダ・カフェ〜ライブ〜迷いながら参加、歌うこと

先週久しぶりにブッダ・カフェに行った。

ブッダ・カフェとは、東日本大震災直後に、T野良人さんが、自身の生家で職場でもあったT正寺(真宗のお寺)を月一回開放し、情報交換やしばしの話のできる場を作りつづけている、その空間の名前である。

参加者は、ほんとうに座談がじっくりできるような少なさで、立ち代わり決まった人がきているなかに、不思議にゲストみたいに、遠く海外、また変わった仕事や趣味の方、ときに著名な詩人、文筆家の方などが来られびっくりする。

この日も、オーストラリアと日本を往復し過ごされている方とその、著名な詩人の方が来られていた。

オーストラリアの山火事はまだ収まってないらしい。コアラが壊滅的な、とくに原生林が焼失し、絶滅が危惧されているようなお話もうかがった。

わたしはたいてい遅れていくのだが、この日も終わる30分前にやっと行けた。それでもその話を聞けてよかった。(いつも、こんな時間だからやめておこうか、と迷いながら参加している。介護(のある)者とはそんなところがある。)

最近新しく参加されつづけている方と、ずっと来られていて、でもちょっとご無沙汰の方の顔も見れたので、時間少しでも行ってよかったと思った。

またT正寺は、繁華街のどまんなかにあり、わたしはそんなときしかそのエリアにもう行かなくなっていて、それもいい機会なのだが、すぐ近くのJ堂書店が近々閉店するらしく、それはこの場でも話題になったが(わたしが発言した)、いつも帰りに寄っていたので、楽しみがなくなって悲しい。そのオーストラリア行き来の方(日本人)の小学生の娘さんも、悲しがってるらしい。彼女はわたしたちが話しているとき、少し離れてずっと本を読んでいた。

前回、歌うことを(弾き語り)はじめたということを書いた。これは、ブログに書いたのがはじめてなので、実際始めたのはかなり前である。たしか、東日本震災直後だと思い出す。

だからブッダ・カフェが始まった頃と重なるかもしれない。

ただ、母の介護も徐々に大変になってきて、離れざるを得なかった。だが、付かず離れずで、たしか入退院を繰り返すようになりはじめたとき、さすがに心が折れ、なにかにすがりたくなったとき、自分がやるかやらないかはともかく、歌に救われる体験をした。

具体的には、スガシカオの歌う歌。

あと、そのよく通うようになった小さなD志社大学の近くのライブハウスで聴く、メジャーじゃない人の(当然だが)生の歌だった。

音源が加工された、商品ばかり聴いていた耳には、素人だが生の歌声、しかもその場でしか聴けない歌は、新鮮で心に響くものがあった。

自分で歌うのが得意なほど、技術的なハイレベルと歌う内容楽曲が正比例でないのが、この世界の難しさ、面白さなのだが。

たとえばビートルズは決して技術的には、同時期の様々なバンド、あとから出てくるロックバンドより劣るかもしれない。

だが、出てくる音は、これ以上ない完璧さをそなえ、結果として誰もその壁を越えられないものを持っている。

究極なオリジナリティというか。

たぶん、世界ではじめて、じゃないにしても、知られている限り、最初に、最大多数の人に、自分で作り歌うというスタイルを示し、活動していたからだろう。

そういう意味ではシンガーソングライターのキリストであった。殉教者でもあった(ジョン)。

ライブは、われわれ素人として、もちろん仕事や義務でもない。アポなしで参加できる「飛び入り」枠は、拘束はまったくない。

行くか行かないかは、純粋任意だ。

人間は、そうなると、だらしなく行かない選択も取りがちで、わたしもそうだった。やめるのは、こたつで寝てしまうみたいに簡単だ。

これは趣味や習い事一般に言えそうである。

ブッダ・カフェしかり。ボランティアしかりである。

ボランティアの語源は、志願者、だそうだから、まさにその行動は自由で、その人に参加不参加はゆだねられる。

だが、これほど、見方によっては、難しいことはない。仕事は行かなければならないから、行けるところもある。

だが、自由に行けるところに行くこと、そこで話したり、歌うことは、特別ななにかがある。余分なことだが、わたしは、それは「迷い」、気持ちの「揺れ」に深く関係していると思っている。

2019年の年末模様

2019年令和元年も明けて2020年になった。

正確に言うと昨日が大晦日だが、まだいまが31日夜とすると、一昨(29)日、昨(30)日と今年は夜勤で、通常より忙しかった。

母は先月18日以来まだ病院に入院中で、わたしの風邪は前回書いたように今月10日頃に発病、治りきるまで長く、一昨日29日ようやく咳が収まった。

ちょうどその間、歯医者の予約が2回あり、10月から始まった一ヵ所の治療がやっと終わった。その最終段階で風邪を引き、治った感じだった。

この一週間、なにか寒気がずっとしており、ぶり返さないか心配であった。

冬にひとりで風邪を引くということの頼りなさとつらさをあらためて味わった。

先週末はずっと静かにしていた反動かと思われる出来事があった。

急ではあったが、知り合いから頼まれ、友人と一緒にアトラクションのミニライブをするということがあった。

実は常日頃、ときたまだが、ライブハウスで、かれこれ7〜8年前から、無謀にも弾き語りをはじめた。

ギターを持っていって、歌うわけだが、ほとんどお客さんのいない場合が多い。

きっかけは友人のその店でのライブを見に行ったことだった。

その影響もあり、大昔に初心者の段階で弾かなくなったギターを引っ張り出し、何十年ぶりにか練習をしてみた。

その店は初心者の飛び入りの枠があって、こじんまりした場所で演奏してるかたも同年代くらいの方がちらほらいて、気軽にやりやすかった、ということもあって、それに歌いに出たのがはじまりだった。

恥をしのんで、人前に出てひしひしとわかったことだが、楽器はひとりで練習するだけではだめで、人前で恥をかいたり、そのために少し本気にならないとけっしてうまくならない、ということだった。

歌にはいまもあまり自信ないが、ステージには一度立つと忘れられない魔力がわたしみたいなものにも感じられた。

が、母の介護が忙しくなり遠ざかっていた。

しかし、これまたわたしの出演を見た別の同い年の友人が、連鎖反応でギターを復活させ、3年くらい前から一緒に練習して時たま、一緒に仲間をつのり出るようになった。

ライブをやめていたのは、なんといっても、ひとりで出るのは、慣れていても意外と、ハードルが高いからだった。これはひとりで、なにかスポーツやジョギングをはじめても、なかなか続かないのと似ている。

だが、誰かと一緒だと、やらなければならない気持ちのもとにおかれる。

練習はスタジオを使うため、出費はあるが、なかば強制的に練習することになる。

仕事や介護の合間に、時間を取るのは、無理に思えたが、隙間隙間に空きを見つけかろうじて、続けられた。

ただ、今回の母の入院中、容態がかなり深刻に変わってきて、あらかじめ決まっていた本番にわたしが出れるか怪しくなった。

直前にもう無理と思い、メンバーには出れないかもしれないとあらかじめ告げたことがあった。

それで、責任感から、おかしなことをした。

あまり面識のない、最近そのライブハウスで知り合った人に、代理で出てほしいとまで、打診した。

そんな内心のつらい駆け引きを、今年はじめて味わった。たぶん、常にそういう活動には付きまとうのだろう。

かろうじて、母はなんとか持ち直した。だが、わたしが何かを犠牲にして、常々介護をしていることを感じざるを得なかった。

いや、逆にたいして上手でもない音楽のために、なにかを失うこともまたあるかもしれない。

年末、急に頼まれたライブは、そんな心配がつきまとったそのライブが終わり、なにか天の采配で、そのおまけで用意されたかのようだった。

すぐに一種にやってくれる、常とは違うそのイベントのための相方が見つかったり、曲もすぐ決まり、練習も日がなかったわりに、とんとんとうまくいった。

そういう流れに乗ったかのように、当日も無理なくできた気がした。

それなりに、本番に合わせないといけない自分の苦労はあったにせよ、前みたいな、激しい直前の心配はなかったことは、母にさえ感謝せねばならないと思った。

ちなみに、カラオケボックスには、楽器持ち込みOKの部屋もあり、そこで練習することができた。

なんでも、カラオケボックスを、最近、楽器を練習する人がスタジオがわりに使っていると、テレビかなにかで聞いていた。

ただスタジオより安いかといえば、そうでもない。ただフリードリンクがあったり、原曲を確認したりできる点は、いいかもしれない。

順番に歌うわけではないから、飲み物をゆっくりのむ時間はないに等しいのだが。

(あけましておめでとうございます。)

風邪のひき方

昨日の続き。

風邪はほとんど治ってきたが、まだ咳と喉の痛みが少しある。だが大したことはない。

しかし、今回、母が入院中で助かったのはともかく、なかなかゆっくり治せなかったのが現実であった。

一日目は夜なか仕事、二日目は昼用事があり、三日目は無理して昼歯医者に行かねばならず、そのため風呂を沸かし大急ぎで入った。

そのあと、ホッとしていつも行く喫茶店カリントウでランチにスパゲティを食べたら、やはりまだ胃が本調子でなく、すぐくだしてしまった、、。

だが、その後、呼ばれていた植木の仕事に出向いた。

それで、やはり風邪ひきのときに庭仕事は絶対ダメだと認識を新たにした。

腰が痛くなるから。

多少は食べれるかと思い、帰りにドラッグストアに寄り、デニッシュペストリーを買って車のなかで休みながらちびちびと食べた。なんとかパンは消化されたようだった。

その前日、ブログで書いたように昼用事で出た。

そのときは、まだたぶん熱があった。

帰ってからすぐベッドに横になった。

かろうじて本は読めたが、寝た姿勢でいると、どうも身体の筋肉が固まり、痛みを伴ってくる。

母がずっと寝たきりなとき、こんな感じなのかと考えたりした。

わたしの場合寝返りはもちろん打てる。しかし、健康なときなんでもない寝返りが、風邪を引くと、構えてから、よしと力を入れないと寝返りが打てないことがわかった。

やがては、寝た状態が続けば、あるいは力を入れても寝返りが打てなくなるだろう、そんな予感みたいなものさえ、漂ってくる。

寝てばかりでもダメなのだ。

最近は、というか社会人になってから、風邪を引くのは年に1回がいいところだった。今回もたぶん一年ぶりくらいだ。

だが、子供の頃はわたしはぜんそくだったこともあり、もっと頻繁に風邪を引いていた。

あの頃、そんなに大変だった思いではないのだが、なぜだろうか。

パジャマ姿でこたつに入りみかんをたべたりしていたような記憶もある。

たしかにぜんそくの発作はつらく、夜中寝れない日が続いたのはいまだに覚えている。

だから普通の風邪は、病気だとは思ってなかったのかもしれない。それくらい、いまより我慢強かったのかもしれない。

だいたいにおいて、大人は苦痛にたいして、案外子供より実は弱いものだ。

今回は、たぶんいつもそうだったはずだが、食事がやはり大変だった。

最初の日は、かろうじてごはんだけ炊いていて、残り物の野菜を卵でとじたものをかけて食べた。

あまり食欲もなく、夜勤だったので、ゆっくり食べれなかった。

翌朝、帰るとき、まだ熱気がしていた。

うどんか何かを食べたほうがと思ったが、どうも食欲もなく、ずっとなにも食べず、ひたすら寝ていた。邪魔臭かったのとしんどいのが混じっていた。

頭のなかで、ある図形が絶えず浮かんでいた。それは運動場に描いたドッジボールの小さめの陣地みたいなもの。その陣地の右は「咳」で左は「鼻(くしゃみ)」だった。

わたしは咳をしそうになると陣地にいた一人がボールに当たり外野に行かされると思い左に移動して阻止しようとした。

くしゃみが出そうになると逆に右に移動した。頭のなかでそんな幻のゲームを繰り広げた。

中原中也も、詩を書いていた。あれは二日酔いだったが、「千の天使がバスケットボールする」と。

それで三日目の昨日、朝、電話で起きた。叔母からだった。

母の病状を聞いてきた。わたしはまだ寝たまま答えた。風邪のことは黙っていた。

起きて、トイレに一階に降りた。少しましになった気がした。

歯医者の予約時間が迫っているのを確認した。

冷蔵庫のなかに母用のビタミンゼリーのチューブのあまりを見つけそれだけ飲んでいった。

昔、風邪を引いても当然母が食事を作ってくれていたから楽だったのだ、といまさらながら気づくのであった。

風邪のときにやることじゃないだろ

久しぶりに風邪をひいた。一昨日早朝に夜勤から帰ったときから、熱っぽく、身体の節々が痛んだ。

朝から夕方までずっと寝ていたが、どうも収まりそうになかった。

だが、その日も夜の仕事があった。屋外の仕事なので、ありえないくらい厚着をしてのぞんだ

たぶん一昨日少し服が少なかったのかも知れなかった。それで風邪を引いてしまったのだ。

今朝夜勤から帰ったときはいささか寒気がましになっていたが、喉が痛く咳とくしゃみがやはり出た。

今日もずっと寝ていた。

夕方、用事があり車で外に出た。

銀杏並木がもうすっかり散りはじめ、風に舞って道路に渦を巻いていた。

ラジオのニュースで梅宮辰夫さんが亡くなったと報じていた。

今日は母の見舞いは休んだ。まだ入院しているのだ。

もし家に帰ってきていたら、風邪を引きながら世話をせねばならず大変だったろう。

いまのうちに風邪も引いておいた方が、考えてみると好ましいのだ。

この間思い立って、ずっと破れたままになっていた、和室の障子の紙を貼りかえた。

作業をすこしづつ行ったので1ヶ月くらいかかったが。もうすでに紙は貼ってあってあとは余りの紙を切り取り、窓枠に嵌め込むだけだった。

和室といっても物置と化してしまっている部屋で、窓際まで障子のさんを運ぶのが並大抵でなかった。それでせっかく張り替えた紙が一部破れてしまった。とほほ。

ああ、身体の調子の悪いときにするんじゃなかった、、。

だがとりあえず、元通りにすることができた。おそらく10年かそこら破れたままで、窓枠からはずし代わりにカーテンを吊っていたのだ。