赤坂真理「明治を、取り戻すのか〜改憲論に想う」バガボンド・カフェ「憲法について Part3」資料その1

以前このブログに書いたことがあるのですが、最初に今回のバガボンド・カフェの経緯的なことをご紹介します。
  
 「憲法」をテーマにしたのは、小説『東京プリズン』の作者赤坂真理氏が、朝日新聞紙上に寄稿していた文章を目にしたからでした。

 この文章は、WEB上で最初だけ閲覧できるので、リンクを張っておきます。→http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201308120437.html

 
 以下、記事から全文を引用させていただきます。

 今の憲法改革論はいかにも唐突だが、改憲派の主な論拠「アメリカによる押し付け憲法だから」は、以前からある。その同じ陣営が政策面では対米追従だったことはさておくとしても、そもそも、「憲法」という概念からして外からのものではないだろうか?

 日本の歴史の悲しさの一つは、何かを内側から本当に欲する前に、外から受け入れざるを得ない状況になることだ。幕末に開国を強いられ明治に突貫工事で近代国家の体裁を整えたとき、政府は戦前の大日本帝国憲法をつくった。列強にあるから「Constitution」を輸入し、そこにさらに「憲法」と漢字を当てた。私も含めわかった気になっているが、本当はどれほどの日本人が「憲」の意味をきちんと言えるだろう?

 私は十代の一時期をアメリカで過ごした。「君の名前をチャイニーズ・キャラクター(漢字)でどう書くの?」と同年代の少年に聞かれ、死ぬほどびっくりしたことがある。「漢字」は英語では「中国の文字」とずばり言う。言われてみればそうなのに、その時までわからなかった。わかるような教育も受けなかった。

 日本の多くのことが、こういうふうである。せめて自国の歴史や言語の来歴は教えてほしい。それを教育というのではないだろうか?自分が現在だけにぽつんと置かれたようなよるべなさは、自尊心を蝕(むしば)む。

 日本国憲法を読むなら大日本帝国憲法も読むのがいい。自民党の改正案も。

 また外国の憲法にも目を通さなければ「憲法」の概念自体わからない。フランス革命の過程で王権に対抗するものだったから、いまも国家権力抑止のためにある、とか。日本と同じ敗戦国で、対照的な戦後を歩んだドイツの憲法も興味深い。インターネットのある今日、たいした労力ではない。

 すべての論議は、こういう複数の憲法に触れることが学校教育でも行われてからだと思う。そして憲法に関する国民投票があるとき、小学校高学年くらいから子供にも投票権があるべきだ。変化の影響下を最も身をもって生きることになるのは、大人になる頃の彼らだから。

 日本国憲法は、対極と思われる大日本帝国憲法と実は構成が似ている。自民党改正案にいたっては文言のトーンさえ大日本帝国憲法に似ている。国民が国家権力に対して抑止力を持つ憲法本来のあり方よりも、国家への「義務を負う」の文言が目立つところが。

 「日本を、取り戻す」という自民党のコピーがある。どんな日本を、かと思っていた。明治を、だとある時気づいた。二つの戦争に勝った「強い明治」。しかし明治とは、それまでの国も生活様式も、壊してつくったものではないのか。私たちは今でもそのひずみの只中にあると思うのだが。
  
 (朝日新聞 2013年8月13日火曜日 朝刊 赤坂真理「明治を、取り戻すのか〜改憲論に思う」) 
 
 


 もともと、わたしは以前文芸評論家の加藤典洋氏がその著書『敗戦後論』(1995年以降の加藤氏の論文をまとめてちくま文庫として出版されている)で「憲法のねじれ」の構造と「政治と文学」の問題を、深い地層をえぐるように、根気よく関連させ論じられていた文章に感銘を受け、日本でずっと棚上げ状態になっている「戦争責任」問題に対する一つの処方箋として、細かい論旨がつかめないながらも、もっと考えてみたい思いがありました。

 この赤坂さんの文章が載った昨年8月、既に自民党参院選で大勝し、選挙公約の中にあった憲法96条の改正の実現へ動き出していた頃だ。96条を改正すれば、憲法の改正、とりわけ9条の改憲が、国会でやりやすくなる。その急ピッチな動きに対して、ちょっと待って、何が起こっているのか、もう少し冷静になって考えさせて、という気分がでている文章です。

 そして、問題提起として、言葉足らずながら、現在直面している課題を彼女なりにうまくスポットをあてている様に思いました。

 それは、「戦後」という時代に、さまざまな形で出ていた政治や社会の問題に、「憲法」が顔を出していたこと、そしてその現象を、久しいあいだにわたり、それほど突っ込んで考えられず、棚上げにして向き合ってこないまま、今に至ったのではないか、という問題です。

 なぜ久しくそれらのことを棚上げにしていたように見えるのか、それは、この文章にあるように、「日本の歴史の悲しさの一つは、何かを内側から本当に欲する前に、外から受け入れざるを得ない状況にな」っているから、つまり、外側からの圧力(近隣アジア諸国との関係の悪化、アメリカの安全保障力の低減化)により、いま日本社会が変化を迫られているからでしょう。
 ただ、そんなとき、本質より「外面」だけを整え、急場をしのぐようなことが、日本の近代以降の歴史上よく起こること、それが、昨今の自民党政権のごり押しの動きと、憲法論議にあきらかに見て取れます。

 なぜだかわかりませんが、安部首相は、こんなことをわたしたちに言っているように見えます。(あくまで想像です。念のため。)

 「なぜ、自民党憲法改正案を見たのに、わたしたちに政権を担当させたのですか。いまなら、(赤坂さんも記事に書いているでしょう?)ネットでいろんな情報を瞬時に取り寄せられ、研究できるはずです。われわれは、ずっと研究に研究を重ねて、いま、ようやく、政権を担い、この憲法改正の端緒にたどり着いたのです。いまになって、わいわい騒いでいる、あなたたちとは違いますよ。心配要りません。わたしたちは、皆さんに任せられているのです。寝る暇もなく、公務にまい進し、この国の新しいかたちをつくるために働いているのです。あなたは、寝ててください。
 靖国の御霊も、わたしたちを応援してくれています。任せてください。悪いようにはいたしません。国会での討議は、NHKで毎日放映していますよね。ご覧ください。秘密裏に行っているわけではありません。合法的に、民主的にことを運んでいます。」

 作家の小林信彦さんが、先日、新聞に寄稿されていて、そのなかでこう言っています。
 

 安部首相が列強国の一つになりたいと焦っている。テレビにうつる顔で、そう思えるからだ。現在の憲法の制約が外されれば、集団的自衛権の行使も一内閣の閣議決定によって強引に押し通せる。国民の声など聞く必要などない。
 
  (朝日新聞 2014年5月3日土曜日 朝刊 オピニオン「ずっと戦争の中にいた少年がみた敗戦と戦後 新憲法素直に受け入れ」小林信彦

 そう、わたしが感じたのも、そのことだ。「国民の声」が無視されているように感じるし、声をあげようという気になれない。声が出ないといってもいい。この、小林信彦さんの記事にしても、いま起こっていることの前で、「無化」されていくような感じを、抱かざるを得ません。

 マスコミに限らず、ネットにも、その種のオピニオンは、無限といっていいほど、飛び交っています。それらのことばにも、残念ながら、何か引っかかりを感じられず、その反面、現実がどんどん進行していっているような、非常に不安な気持ちが続いています。

 これは何かに似ている、そう考えて、思い出しました。あの、3.11直後の原発事故の報道です。

 最近、あの事故直後、懸命に事故の沈静に当たろうとした、福島第一原発の元所長で故人の吉田昌郎氏の「聞取結果書」(=吉田調書吉田調書に関するトピックス:朝日新聞デジタル)が話題になっています。事故後、3年以上経って、ようやく真実が公表されようとされています。いまだに東電と政府は、妙な理由ずけで拒んでいますが、4日の報道によると、東電の株主が情報の公開を訴訟するとのことです。

 それほど、あの事故は、国民と現政権や東電のような巨大企業の乖離をすすめました。いや、というより、あの事故によって、わたしたちが陥っている実情が、わかる形で明るみに出たような気がします。

 それ以降、どんどんその乖離はその正体を現してきた気がします。

 3.11直後といえる、2011年6月に、わたしがはじめて扉野さんの主宰で行われたブッダ・カフェに参加したとき、ひとりの参加者が、「本が読めなくなった。いままで読んでいたことばが、急にそらぞらしくなり、ただ1冊の本のほかは、まったく読むことができなくなった」という発言をされていました。
 
 けっこうたくさんの参加者がそのとき、その発言に一様に衝撃を受けたように思いました。つまり、その感じは、みんな連日のマスコミの報道や政府のコメント、識者の沈黙も含むメッセージに対して、深く持っていたものだったからと思われます。

 わたしも、その場で、何かを言いたくなりました。つまり、「ことばが信じられない」ということばを語りたくなったのでした。この参加者が声にされた「親しんできた本のことばを信じられなくなった」という「ことば」は、信じられると思ったからでした。

 小林秀雄という、有名な文芸評論家がいます。(こんな断りは不要なほど、有名な人ですが。)彼は、ある講演の冒頭で、「講演というものを好まない」と言ってはじめています。

 

 私が講演というものを好まぬ理由は、非常に簡単でして、それは、講演というものの価値をあまり信用出来ぬからです。自分の本当に言いたい事は、講演という形式では現すことが出来ない、と考えているからです。無論これは、私の勝手な言い分である。私の人生観から割出した結論である。政治家は、演説ではとうてい己の政見は発表出来ないなどとは考えない。ヒットラーの様な演説気違いになりますと、雄弁術というものが発達すれば書くという様な陳腐な表現形式は、将来大打撃をうけるであろうという様な事を『我が闘争』の中で言っております。人によって考えはいろいろであるが、まあ職業というものが別々なのだから、それでよろしいのでしょう。

 (小林秀雄『私の人生観』より)

 
 別の講演で、たしか小林秀雄は「政治というものは、私の虫が好かない。そうとしか言いようがない」といったことも言っていました。

 つまり、ブッダ・カフェでのひとりの参加者と同じようなことを、小林秀雄も言っているわけです。政治家の言論は、文学のとは違うのだと。ただ、小林秀雄が「政治家と、私は違う」で済ませていた問題が、おそらくその参加者やわたしには、済ませられない現実に直面していた点です。

 現に、原発事故はその6月時点でも収束していませんでしたし、自主避難する人たちと、それに対し、とどまるよう説得する政府東電の圧力、その動きが現地で促し、いまだにそれが解消されえない住民同士の意見の対立と反目は、日々深刻さを増していました。そして、それは、わたしに政治と言論という関係の複雑さを提示しているように思えました。

 放射能被害の情報がいろんな場所で交錯し、福島だけでなく、周辺地区の被災された方々が、個々に、有力な情報を自分で選び、判断しなければならない、事故直後の状況に、これも有名な文芸評論家であった吉本隆明のこんなことばが、胸をよぎりました。
 

 わたしには遠い第二次大戦(太平洋戦争)の敗戦期にじぶんとひそかにかわした約束のようなものがある。青年期に敗戦の混迷で、どう生きていいかわからなかったとき、わたしが好きで追っかけをやってきた文学者たちが、いま何か物を云ってくれたら、どれほどこのどん底の混迷を脱出する支えになるかわからないとおもい、彼らの発言を切望した。だがそのとき彼らは沈黙にしずんで、見解をきくことが出来なかった。
 (吉本隆明『大情況論』あとがき、弓立社、1992年〜加藤典洋敗戦後論』<ちくま文庫>p.169の引用による)

 太平洋戦争のさなか、吉本隆明は、国家のために死ぬ覚悟でその少年期を過ごしたいわゆる「軍国少年」だったと、よく自身で述べていました。敗戦期に、日本が「軍国」から、一気に「民主主義」を謳歌する国に価値転換するのを目にし、吉本少年が、自己の価値を失ったかのように感じたのは、想像に硬くありません。
 
 3.11のときも、識者は、「沈黙にしずんで」いた記憶があります。逆に、科学者の見解はインターネット上に、極端に二分され、飛び交っていたようでした。それまで、特に注目されていなかった科学者、反原発の活動をずっとしていた小出先生のような方は、一躍有名人になり、そのコメントが日夜注目を浴び、マスコミにも大々的に取り上げられていました。

 そこに、あった識者の「沈黙」は、事故前には原発を容認したとはいえないものの、それについて特に注意を向けていなかった事実と、この事故の起した「混迷」に対し、発言する「ことば」を用意できていなかったことを、如実に物語っていました。
 「沈黙」は「ことば」になり得るのか。これも、一つの問いです。

 しかし、吉本隆明は、同じ文章を、こう続けています。
 

 その追っかけ(イザイ注:敗戦期少年だった吉本)は、そのときじぶんのこころにひそかに約束した。じぶんがそんな場所に立つことがあったら、激動のときにじぶんはこうかんがえているとできるかぎり率直に公開しよう。それはじぶんの身ひとつで、吹きっさらしのなかに立つような孤独な感じだが、誤謬も何もおそれずに公言しよう。それがじぶんとかわした約束だった。
 (吉本隆明 『大情況論』あとがき、引用同上 加藤典洋敗戦後論』p.169)

 吉本隆明は、2011年3月11日当時は、存命でした。たしか、糸井重里氏が、インターネット上に、吉本隆明にインタビューし、その動画を頻繁に公開していた記憶があります。どのような「公言」を、吉本がしていたか、いま、もう一度確認してみたい気もします。

 それはともかく、3.11直後、テレビや新聞から発せられた情報は、ある色「政治的脚色」といったものに、染められていきました。マスコミの人たちが、どう言おうと、それをわたしは感じました。それは、隠し、その隠されたものをあばき、またそのあばいたものを疑うといった、ものすごい連鎖反応を起す言説でもあったかと思います。

 そして、それは3.11で、急に起こったことではなかったのでした。知らず知らずのあいだに、馴らされていただけで、あの東日本大震災と福島の原発事故により、気づかされたのだと思います。つまり、敗戦期に吉本隆明が探し求めた「どう生きるかを教えてくれることば」などは、すでになかったことに。果たして、それを、わたしが求めていたかどうかも、怪しいことに。

 このときの体験が、わたしに、ずっと何が問題かわからずにいた問題、文学とは何か、信じられることばとは何かを、考えさせるきっかけを与えてくれました。

 それは、いわば「政治と文学」の問題といえます。端的に言えば、「言論はどう”現実”と関われるか」ということだと思います。

 まあ、そういうきっかけもあり、この「憲法」の勉強会を行うことを考えて、昨年2回ほど行わせていただきました。しかし、結果として、なんとなく日ごろ感じている「もやもや感」を、払拭できたかというと、不発に終わったというのが、正直なところです。
 そのあいだに、事態は刻々と進行し、この文章の冒頭に述べているような状況になっています。

 勉強会が不発に終わったのは、おそらく、ひとつの理由は、勉強会で何をやろうとしていたのか、わたし本人がわからないまま、ことに及んだからだと、今になりわかった気がしています。
 そして、自分の思いを、うまく伝えるためには、もっと問題点を広い視野で、捉える必要があったことに、最近気づかされました。

 最近、古新聞のなかから見つけた記事、2011年の論壇を回顧する「私の3点」に、作家で、現在も朝日新聞の論壇時評を月1回執筆されている高橋源一郎さんが3冊の本(とWEB上の情報)をあげたあと、こんなことをポロッと書いています。

 山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
 東 浩紀『一般意志2.0』
 福島第一原発の「指さし男」(監視カメラに現れたパフォーマンス男性。本人の説明はhttp://pointatfuku1cam.nobody.jp/ リンク⇒about the pointing a finger toward fukuichi live cam )

 「現実」に圧倒された年であるからこそ「原理」から考える論考を読みたい。2冊の本、そして「指さし」にもまたその力があった。
 (朝日新聞 2011年12月14日水曜日 朝刊 「回顧2011 論壇」高橋源一郎

 「現実」は、それ以降、そのスピードと恐るべき複雑な国際状況を絡め、その力を増し、わたしたちを圧倒し続けているように思えます。そして、「原理」から考える必要性は、同様にさらに増しているように思えます。
 「原理」というと、「原理主義」みたいなので、「原点」と言い換えてもいいように思えます。
 「政治」の「原点」とは何か、「文学」の「原点」とは。

 わたしは、そこに昨今、自民党政権のまな板の上の鯉と化しつつある「憲法」を見ます。戦後日本の「民主主義」と「文学」の「原点」に、じつは「憲法」が交錯しているように思えるのです。

 そして、その「原点」を見ることで、「現実」に立ち向かう力を得られないか。

 「憲法」の「原点」は、言うまでもなく、占領下の日本にあり、さきほど紹介した吉本隆明のコメントを引用していた、加藤典洋さんの『敗戦後論』は、まさにそこに遡って、論じられていました。

 前回のバガボンド・カフェでも、少し紹介した『敗戦後論』でしたが、全編あわせると長く、かつ難解でもある評論なので、なかなか読み通すのは骨が折れます。また、この本を正面から論じることが、いまわたしに必要なのか、いまいちわからないのですが、とにかく、現今の「現実」に立ち向かうためには、わたしには、高橋源一郎さんにならい、「原点」に帰ることが、いちばん有効だと思われるので、とりあえず、憲法の勉強会の、隠れたテーマとして、『敗戦後論』があります。

 そして、今紹介した記事にも見られるように、高橋源一郎さんは、雑誌、書籍だけでなく、インターネット上の言説も含めた論説を対象に、ずっと朝日新聞にて月1回論壇時評を連載しています。

 この論壇時評に触れられた言説と、その取り上げ方には、「原点」を、正面から論じるのでない視点を感じます。それは、いまの言論界がもっている、パワーも感じなくはありません。

 ということで、前置きが長くなりましたが、次回より、この高橋源一郎さんの論壇時評のバックナンバーを、ひとつの補助線として横に見ながら、加藤典洋さんの『敗戦後論』の中身に触れていきたいと思います。