「情報」と「情報化」の違い〜学校は「情報」を学ぶ場か?

前回書きました内田先生の講演会について、先生ご本人のブログに講演会の要旨が発表された。特殊な能力について - 内田樹の研究室
その中から引用。

これまでも何度も書いたことだが、自然科学の先端的な研究に従事している学者たちとお話するのはほんとうに面白い。
この数年のあいだに話をきいてどきどきした学者はほとんど全員「理系の人」である。
養老孟司名越康文、池上六朗、福岡伸一茂木健一郎三砂ちづる春日武彦池谷裕二、仲野徹、岩田健太郎・・・
文系の学者で「話を聴いているうちに頬が紅潮するほど知的に高揚した」という人は、残念ながら一人もいない。
なぜか。
理由はいろいろあると思う。
一つは、理系の先端研究者は「なまもの」を扱っているということ。
養老先生は以前「情報」と「情報化」の違いについて教えてくださったことがある。
「情報」というのはすでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもののこと。
「情報化」とは、「なまの現実」を切り出し、かたちを整えて、「情報」にパックする作業のことである。
文系の学者たちは、情報の操作には長けているが、「なまの現実」を情報化するという作業にはあまり関心がないように見える。

「情報」と「情報化」の違い、「情報」は「なまの現実」とは違うということ。
これは、先に、吉田秀和のFMのクラシック番組について、わたしが感じた、電波に乗っている「なま」の雰囲気が、音楽を違う響きで聴かせていたことと微妙にリンクしている。
もっともっとこの件では、詳しい論考が必要であろうが、今ここで考えることがひとつある。
それは、教育(産業)の問題だ。
わたしが、以前働いていた職場は、教育産業に分類できる、資格試験予備校だった。
オーナー社長の全盛の時期ちょうど20数年前に入社した。本社ではない地方の支店だったが、5年ほど前司法試験改革によるロースクール制度導入のあおりをうけ、経営破たんしある大手印刷一部上場企業に拾われ、子会社として存続するも、2年前に、さる同業他社に転売された。
ブランド名と扱う資格により、チームが残され、地方校でも最低人数が買収側の企業(資格スクール)に移動後、約半分がリストラされ、現在も何とか続いているらしい。
さて、いきさつはともかく、今になって考えると、資格受験の産業の創業時は、考えると資格試験という、「生もの」=実務に近い事項を、その「生もの」を毎日扱って徒食をされている弁護士や司法書士が教えるという、どちらかといえば「現場」の人間が、未来の担い手を作る、見たいな雰囲気があったと思う。
だからこそ、大学の授業は出席するだけで、本腰を入れるのはダブルスクールで通う資格スクールで、というパターンが定着したのだと思う。
大学の授業そっちのけで、将来のある意味不況に強い独立系資格ホルダーという安定株を買うために、資格受験をめざすのも、どうか、という意見はさておき、スクールの勉強に魅力が無ければ、あんなに生徒は集まってこな(かった?)いはずだ。
現に、わたしの企業を買収した大手資格スクールがメインに開講している会計系の資格講座は、ほぼ満席に近い人気だという。
資格スクールは、最近はそうでもないことも増えていて、それは今の業界の問題でもあり、かつ今後の資格実務にも徐々に影響を与えつつあると思われるが、わたしが入社した頃は、ほぼ100%資格実務に携わっている資格者が教えていた。
そして、そのなかのだいたい80%近い方が、ご自分で事務所を経営されている独立者だった。
それだけに、当時は資格試験は、たぶん、ほぼ実務に近い位置にあったかと思われるし、講義そのものも、そういう「生もの」の触感に満ちたものが提供されていたであろう。
ところが、大学の講義はどうだろうか。今現在、資格スクールもかなりな部分そうなっている傾向が、わたしの退職前も見られていたが、内田先生が養老先生に教えてもらったという「情報」の定義であるもの、つまり「すでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもの」ばかり、取り扱っているように思われる。
これは、わたしが大学在学中、ちょうど今からほぼ30年前だが、濃厚に大学の授業に見られた無味乾燥性を言い表している。
そもそも大学受験の勉強は、その無味乾燥性に耐える忍耐を強いられる、一種の「作業」でしかなかった。
わたしは、かつて、大学受験の勉強がつまらないのは、大学入試のせいだと思っていたが、そもそも大学の授業が原因だったのだ。「最近は、学生が画一的で面白くない」みたいな言い方をする大学の先生が当時いたが、今から思えば、あんたが悪いんじゃないの、といいたくなる。
内田先生は、講演でかなり、まあ文系の、という留保つきで、大学に手厳しい意見を言われていたが、本当に率直に言えば、日本が知的にもしまずい状態であるとすれば、真っ先にその原因のそしりを問われるのは、大学教育であろうと思われる。
そのことが、「情報」と「情報化」という言葉に端的に表れていることを、今痛感している。