「歌謡コンサート・浜圭介の世界」と中原中也「港町の秋」

先週から今週にかけ、風邪を引いてしまった。どうも内田先生の講演会を見に京大へ行ったとき、背中がゾクゾクしていたのだ。
寝込むことはなかったが、咳鼻水が止まらなかった。
しかし昨日アルバイトが夜勤で仕事をしたら治りかけてきた。
仕事中、雪が降り始めたが、雪が降るときはなんと気温が上がることをご存じか。
逆接的な事実なのである。
今日は夜勤明けで昼間から風呂にはいる。なんとか昼間は寒さがまだましなので、風邪を引かないためにはそのほうがいいのだ。

そして夜、母と一緒に食事のあとテレビを見ていたら、毎週母が見ている「歌謡コンサート」で、歌謡曲全盛期のヒット曲を数々世に送り出し、今もジェロや石川さゆりに演歌の新曲を提供している浜圭介という作曲家の特集をしていた。
いやはや、この間山の中の雪におおわれた宿でカラオケで歌った多くの歌たちは、なんと浜圭介の曲がいかに多いか!
クールファイブの「そして神戸」
奥村ちよ「落ち葉の停車場」
北原ミレイ「石狩挽歌」
八代亜紀舟歌
堺正章「街の灯」
そして高山厳「心凍らせて」
名曲オンパレードである。
雪の宿のカラオケにて思い知った、昭和(高山厳は平成の歌手だが、歌のエッセンスのカテゴリーは昭和だろう)の歌謡曲には、心の中から沸き上がるロマンとリズムがある。
それは、歌の歌詞にたぶん民族として日本人が持ってきたプリミティブな抒情がシンプルに残っている(現代詩が詩の批評性によりとうの昔に失ってしまったもの)からだろう。
そしてロックの登場以前の作曲法は、身体を揺らすリズムはなく、不動で歌う前川清に象徴されるような、内向性を基調に持っているからだろうか。
それをひとことで言えば以前中原中也がたしか詩の中で書いていた(うろ覚えですが)
「港町の秋は、
静かなる発狂
わたしはその日人生に
椅子をなくした。」
だろう。さすが中原はうまいこと歌うな。
どうも歌謡曲のいくつかの、いやかなりな部分の範囲で、中原中也の詩が元になっていることは、あきらかに思われるのだが。