京都「ガケ書房」のイベント〜2011.4.10「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」

前回、鶴見俊輔先生が、3月31日夕に朝日新聞で発表された「身ぶり手ぶりから始めよう」と題された文章を紹介した。
それは、はるか古代日本で、文字文明技術文明より前に、物々交換的交易でも使われたであろう動きを、被災地に発見するという内容だったが、なんと、呼応する(んではないかと勝手に思っています)イベントが「ガケ書房」で行われる。古書善行堂のブログ「古本ソムリエの日記」に紹介されていた。
それは、タイムリーな京都ないし関西での、イノベーショナルでラジカルな試みに思え、ここにも、リンクを貼ります。
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「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」

各人が身の回りに持っているもの(モノ、唄、作品、ことば etc・・・)を投げ銭という形で手放す(リリース)ことで、「想像力を善きことに使う」(古川日出男)試み。

4月10日(日) 12:00〜日没まで(15:00から震災避難されている方達の集会あり)

於・ガケ書房正面(ライブステージ随時あり、飲食・古本・雑貨、出店あり)

古本、作品、歌声やお経や演奏、パフォーマンス、身の回りにあるものなんでもをすべて投げ銭で交換する。ライブステージが無い時間は自由参加枠として、飛び込みで自由に個人の所有物を販売したりもできます。ぜひぜひ。
http://www.h7.dion.ne.jp/~gakegake/

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一種のバザーみたいなものか。これは行ってみないと、わかりません。

しかし、最近、古書店の営みを見ていると、その人生作法が、この「投げ銭市」であるような気がしはじめていた。
それは、いちばん手元におきたいものを、率先して、他者に売り、新しいほしいものを買う行為の持続が、一番ほしいものを手に入れるもとになっている気がするからだ。
これは一種宗教的でもある作法で、なまなかにはその境地には立てまい。
投げ銭市」も、個人的には、そういう作法での誘いで、鶴見先生の文章となんとなく通い合う。

モノを経済的マーケットでの価値のみで計ると、究極には株価のようにゼロか無限かにならざるをえないだろう。そんなジェットコースターのような危うい市場でかろうじて均衡が取れている時間は、今回の原発事故を含む大きな危機に遭遇すれば、そうそう長くはないと思わざるを得ない。
今までの日本の社会(つまりアメリカ文明)のスタンダード(基準)、法規的な正義(株主重視経営とコンプライアンス)、経済的効率的な功利(マーケットという神)を、たとえば地震対策に厳格にあてはめるほど、復興には長大な時間がかかる。
現在、夏の計画停電の必須事態を政府は告知している。その前で、刻々と見直しすべき事態が迫っている。長期的に有効な、安全な社会のためのプランをみんなで考えないと、これより先は進めないのではないだろうか。
東電は、原発事故の安全管理に、もちろん新しい原発はそうじゃないと言うだろうが、経済的効率的な基準を適用したから、結果として危険な施設を稼動させていた。

ただ、鶴見先生によれば、近くは明治の開化、古くは文字(言語コミュニケーション)の発明以来、人類はこれを目指し、進んできたとすれば、簡単にそれはやめれるものではない。
もちろん、復旧は至上の命題である。
しかし、何が本当に効率的かを考えるために、いままで効率的と当然考えたことを疑い、他のエネルギー利用を含めて、考え直す必要はあるだろう。

人間が金銭から価値評価の基準を奪い返すには、個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねるほかないのではないか。
そのためには、今まで身の回りにあった、文明生活の棚卸しを実行し、もっとも貴重であった親しんだ生活そのものの一部を、「投げ銭」に変えることも考えなければならないのではないだろうか。
上記「ガケ書房」のイベントは、その鍵は「想像力」だと提案しているようだ。