5月24日(火)大谷学会春期公開講演会に参加

夜勤明けで休みだった。
その場に参加して聞いてから、これは誰それを誘って一緒に来るべきだった、と思うような講演やイベントがある。
しかしその期日が近いほど、ここに書いたり本人にメールしたりする余裕がなく、ましてつい昨日はひどいどしゃ降りで、今日の見事な五月晴れなど誰が予想しよう。
結局、自分一人で参加し、会場で聞きながら、あぁ誘ってあげればよかった、等と思う。斎藤環氏講演会、大谷大学の春期特別公開講座「換喩・キャラクター・日本人」に参加。無料だった。
大谷大学は知る人ぞ知るその名の語る通り浄土真宗(東)大谷派の大学である。
ここはわたしの家からわりと近く、昔からよく前を通っていたが、講堂に入ったのははじめてだ。
天井が高く、椅子は木で中央がすりばち型になっている半円の見事な作りで、説教を聞くような感じであった。教会に似ている。
大きなプロジェクター用スクリーンもあり、斎藤先生はそれにウルトラマンスペシウム光線を写したりしていた。
斎藤先生の前に大谷大の教授である兵藤一夫先生も話されていて、こちらの題は「分別と戯論(けろん)」というもの。
「戯論」とは仏教用語で「言語」のこと。
仏教では「言語」つまり言葉による現象の説明を「戯れ」として軽んじる、というか言語に置換できないものを尊ぶ。つまり「悟り」は言葉で表現するのは不可能。
そして人間の苦しみの根本原因は「認識」であり、その「認識のあり方」、つまり「認識対象と主体の実在を前提とする二元的認識」を「分別」と名付け、それを苦しみの原因とした。(龍樹という経典に書かれているらしい。)
その「分別」を生むのが「戯論」つまり「言語」らしい。

さて斎藤先生はテレビによく出ている通り、長髪で背が高い。
わたしはあまりよく実は知らなかったが、大学側の司会の方の紹介で「サブカルオタク文化に詳しい」とあった。
たしかに講演のなかで、スライドでアニメキャラがでたり(テーマがキャラクターなので当たり前だが)、ゴジラをはじめウルトラセブン、前述のウルトラマン谷川流レッド・ツェッペリン等々の言葉がほとばしっていて、ニヤニヤしながら聞いていたが、聴講者は年輩の方(60代以上)の方が多く、先生がポーカーフェイスで飛ばして行くのがひどくおかしかった。
(ただそこここに若い学生もサンケンされ、質問をしていた人もいた。たぶん先生のファンであろう。少なかったのは、告知が活字メディア、それもローカル中心だったからだろう。おかげでゆったり聴けた。ネットに情報が流れていたら、京大の内田先生の講演みたいに教室がパンクしていたかもしれない。ただこちらは最初から会場が広かったが。)
しかし臨床の精神科のお医者さんが本業であるとか。
たしか内田樹の文庫の解説を書かれていた記憶があるが違うかもしれない。
さて斎藤先生は、冒頭で兵藤先生の講演に触れ、仏教の「戯論」はラカンの言う「象徴界」のことだろう、と語りはじめた。
つまり言語は「記号」ではなく、「文脈」によって意味が決定される「象徴」なのだ、という話で、のっけからその「象徴」のあり方、「隠喩(メタファー)」と「換喩(メトニミー)」の二種類あると説きはじめた。
すごく早口でしかし口調は明瞭でわかりやすく溢れるように言葉がでてくる。
活火山のようであった。
続きはまた書きます。
帰りに大学近くで撮った加茂川の写真↓
水が橋の下すぐに来ているほど増水している。