大谷大春期公開講演:斎藤環「換喩・キャラクター・日本人」その2

講演会に参加した学生A君との会話です…。
「で、どうだった、講演会。面白かった?」
「まぁまぁ」
換喩というのは知っていた?」
日本のアニメキャラクターは換喩的なんだって」
「換喩的?よくわからないな。あの薬みたいな?」
「あれは肝油だよ!ミッキーマウスはねずみの格好をしてるがあれはまるで人間のような動きや表情をしている。過剰に人間的でしょ?これは隠喩、つまり人間の「本質」をメインに象徴している。

「ふ〜ん、たしかにニコニコしてるね」
「それに対し日本のキャラは、表情にとぼしく、目や座り方といった人間の顔のパーツやしぐさのような「隣接性(と斎藤氏は言っていたけど)」を動物に与えているものが多い。キティちゃんやひこニャンは、よく見ると不気味なくらい動きや表情に欠ける。それは必ずしも人間らしくあることを目指してない、あくまで人間に「隣接」したキャラクターであり、これが「換喩的」象徴、換喩(メノトミー)なんだって。」

「ふーんなるほどな」
古事記でも、神の発生にその兆しが見られる。アマテラスはイザナギの目と鼻を浄めた水から生まれたとか。つまり部分から生まれその本質を象徴せず、部分を象徴した存在なんだよ。たとえばゲゲゲの鬼太郎に出てくる目玉親父も隠喩じゃなく換喩に分類されるかも〜」
「たしかに。外国にはないキャラかも…」
「その日本的な特性がフクシマの風評被害にも現れているんではないかというのが、斎藤先生の仮説なの。」
「ほ〜、そうなんだ」
「本質的な感染がありえない対象、たとえばタクシーの乗車拒否、福島県人への接触を嫌がるなどは、放射能そのものを怖がるんじゃないある意味理不尽な忌み嫌い方が見られた。それは昔でいうところの「ケガレ」、死者などに対する日本人独特の反応だったのじゃないかって」
「え?ケガレ」
「日本の神話には、黄泉のくにに妻を取り戻しに行った男神が、死んでいた妻を発見してしまう。そのとき、死んだ妻を見ただけで自分が穢れたという感覚を味わう場面があるんだって」
「穢(ケガ)れ、か」
「そしてそれは日本のアニメキャラにも特徴的な、本質的じゃない、あくまで隣接的な意味付けでものごとをとらえる換喩的な発想だって言ってた」
「ふ〜ん、そうなのか。それはある意味、無用に人を傷つけてしまう特徴だね」
「逆に言うと、日本人は「ケガレ」を「キヨメ」によって無害にできるとすぐ思う傾向があるんだって」
「そうなの?」
「今回の原発事故後、放射能が「うがい薬」を飲めば除去できるみたいな、科学的根拠がないデマが流れたのは、その「キヨメ」の発想の影響があるかもしれないと言ってたよ」
「清めるんだね。実際意味ないということか〜」
「同じくウルトラマンスペシウム光線は日本人の深層心理と関係している可能性がある」

「それも見せかけということ?だってあれは怪獣を倒すだろ〜」
「「光線」に対する偏愛が、日本文化にはあるそうなのよ。アニメや特撮もので光線を武器にするヒーローがめちゃくちゃ多いのは、日本の特徴らしいよ〜。」
「そうなのか〜」
「もともとヨーロッパの照明が間接照明が基本で光を好まず「点的」なのに対し、日本の家の照明は明るく、「面的」で、あの日本の住宅に多い丸い蛍光灯は外国にはなく、日本にしか売ってないって言ってた」
「えっ!あの円形のパルックか。外国にはないんだ」
「その理由として、こんな話をしてたよ。」
「え〜、どんな話?」
キリスト教の聖書のなかでは、神が光るときイコールドラマチックな場面、つまり奇跡や恩寵のあらわれとして光が象徴的にあらわれるそうで、つまり肝心なここぞというときしか光らない。」
「うんうん」
「けど日本の古代神話をみると、神々は光りまくっているらしいよ。ことあるごとに光を放ち、そのことになんら特別な意味合いがないことが多いっていってた」
「そうだな。ヒカリモノが好きだものな。むかし着信したらピカピカ光る携帯とかあったもんね〜」