JR貴生川駅と『1Q84』〜ブッダ・カフェ第8回〜仙台からの報告

昨日はめずらしくJRの在来線に乗る機会があった。
滋賀県甲賀市にあるご実家に帰られていた森林ボランティアの先輩Yさんに直接頼みたいことがあり、最寄りの駅までJRで行ったのだった。
京都駅10:15発の快速野洲行きに間に合った。
京都駅では湖西線の列車が屋根にかなりぶあつめの雪の塊をのせて、ホームに停車していた。昨日(今朝も)朝方から雪が降ったが、滋賀の湖北の豪雪を物語っていた。
草津駅で新快速を降り、東海道線から柘植(「つげ」と読む。つげ義春を思わせないでもない。)行きの線に乗り換える。
草津駅は連休最終日のX'masということで人が多かった。
そこまではうまくいった。
しかしその乗り換えた電車が目的の油日(「あぶらび」と読む。アラブの地名みたいだ)駅がまだこないのに、終点とアナウンスがある貴生川(きぶがわ)という駅で停まってしまった。
しかしアナウンスは違うホームに11:51に続きの電車が来ると言う。一瞬、時間の聞き間違いだろうと思いながらそのホームに向かったが、なんと本当だった。まだあと30分以上ある。
あとでYさんに聞いたら、だいたい一時間に一本の電車が基本だから、そういう状況はよくあるらしい。
9月に東北本線を鈍行を乗り継いで仙台まで行ったときのことを思い出した。
中心を離れ、端に行くほど、電車やバスの本数が減ってくるのだ。
幸い、ホームに暖房がかなりかけられた待合室があって、入ると暖かかった。
最初、そこで待っている客は私だけだった。
彦根から乗り込んだ人たちもここが目的駅だったらしくみんな改札を出ていってしまった。
昨日は朝から半端じゃない寒さだったし、天気はよくなって陽が差してはいたが、外は冷たい風が吹いて寒かった。
待合室は三人掛けのベンチが三つ横に並んでいるだけの小ぶりなものだ。待合い BOXといってもいいかもしれない。
しばらくするとスーツにショートコート姿の若者が入ってきた。
彼はわたしが座っていた三人掛けのベンチの左隣のベンチに腰かけるとかばんから本をだして読み始めた。
カバーのないおおぶりの本だったので表紙が見えた。白地にオレンジの細いラインは見覚えがあった。
1Q84』だ。オレンジだからBOOK2だろう。私も今BOOK3を読んでいる。持って来てないが。
連休なのにスーツ姿なのは就活中なのだろうか。
人気のない田舎駅(失礼)のホームと村上春樹は、そぐわないと思えるかもしれない。だから、今思うとなんとなく貴重な光景を見たような気がする。
たしか『1973年のピンボール』に、主人公が大学のときのガールフレンドが生まれた町の駅を訪ねていく話があった。そこも田舎っぽいところで、主人公は駅のホームで野良犬に出会い、その犬が彼女の昔した話に出てくるのを思い出すのだ。その彼女はその時点でもうこの世にいない…。
しばらくしてもう一人待合室に女の人が入ってきた。私は持ってきた新聞を広げて読みながら電車を待った。

電車でいままでも隣の人が読んでいる本が見えて、なんの本かわかってしまうことがある。
昔、小説家の金井美恵子が、人が読んだり書いたりしているものを覗きこむのは犯罪に等しいと激しくその行為をエッセイで糾弾していた。
それは至極もっともなことで、電車とかで人が読んでいる本がなにかを気にするようなことはよくないし、極力私は見ないことにしている。
しかしながら、たまたま目に入ってきて、アッと衝撃を受けることが時たまある。
つい最近、地下鉄でどう見ても中学生にしか見えない男子学生が大江健三郎の『芽むしり子撃ち』を読んでいるのを見て驚いた。
しかもそれは文庫だったがカバーのない背表紙がよれよれの本で、かなり読み込まれているのがひと目でわかった。
あれはお父さんか先生から譲り受けたものだろうか?大江の文庫はあまりブックオフでも見かけなくなっているから。
そのときは「きみ渋いね〜!」ともう少しで声をかけそうになった…。

昨日は徳正寺で行われるブッダ・カフェの日だった。5月の初回から数えて8回目。月一回の頻度で集まり、東北の震災のことについて、時々京都に避難されている方々も招いて、話す。
甲賀から帰り、Yさんが京都に帰る車に乗せていただいたのだが、Yさんもお誘いして、少し遅くなったが、一緒に参加した。
この日は仙台で被災され、一カ月前に京都に意を決して移り住まれた方がお子さんをお二人連れて参加されていた。
その方より震災直後から仙台で過ごしたときの話をうかがった。
いま平素はテレビでもあまり見かけなくなった、震災のことが、再び目の前に迫ってきた気がした。
それはままならぬ復興とともに、(あまり現地でもことさらに口にするのははばかられる、威圧の空気があるとのことだが…)放射能の広範囲の低線量(といってもチェルノブイリでの強制避難地域よりも高いところもある)汚染という形でも継続しており、向こうではまだまだ不安とストレスを抱えた暮らしを余儀なくされている実態のまぎれもない噴出だった。
また終わりかけの時間になって仙台で福島の汚染のきつい地域から子供だけでも週末比較的安全な地域に親子で一時避難させるため、寄付金の協力を募る活動(がいくつかあるらしい→「渡利の子どもたちを守る会」、「ちいさなたび Japan」母子週末保養プロジェクト ちいさなたびJapan 公式ホームページ)をされている方々が、たまたま京都に来られていて参加された。
そこでまた現地の事情をうかがう。
避難したいが様々な事由で簡単にそうもできない、またそんな状況で自分達で被害を極力押さえる方法を模索したり、上記のような子供の支援活動(ライブをやって資金集めもされている→「おとのわ」Brogspot.com)もされているという。

福島の放射能汚染の健康被害は、新聞ではあまり報道されないが、かなり以前より意見が対立していて、行政や政府は大丈夫だといい、反原発寄りと分類できるだろう識者はことごとく危険だと警告するという真っ二つの谷間が、コミュニティや家族やまた個人を引き裂いている。
こんな問題に簡単に答えが出るはずもないし、政府は識者や住民の意見に押される形で、基準値をだんだん厳しくして来ていて(そういったことは新聞にもでている)、地域産業や農業や漁業、コミュニティを別な意味で守ろうと(あるいは補償をできるだけ少なくしようと)する自治体側からすれば結果的にだんだんバードルをあげられてはいるらしい。
しかし、いままで情報がなく、あっても不正確で、意図的ではないかもしれないが、じわじわとしか行政やマスコミから放射能の汚染状況を知らされなかった個人としてみれば、「自主避難」という原則は支援を受けられないリスクのある最終カードを切る機会がなかなか得られない、もしくは継続的に失われているらしいのは、想像に固くない。
それはあくまで個人の判断に委ねられる問題なのだろうか。あくまで自分の行動の責任は自分で持つという自由に付随する自己責任の究極的な発現として、情報を集め、いろんな方向から最適の手段を選び実行する。それに伴うリスクと費用は自分で引き受けるが、それを躊躇し拒否するなら、利益を得ることはできないのだろうか…。
利益?なにも特に人と違った豊かな生活を望んでいるわけではない。ごく普通のいままで営んできた日常の生活、それを履行しようとするだけのことに、それだけの高度なパフォーマンスが要求されるのだ。
しかも回りの情報はいままで通りで被害はないという論も巷にかなり影響力をもって存在すれば、それに従い、再興復興に向け地元のために働く選択をするのもやむを得ないだろう。
しかし、これが福井の原発だったらどうなっていただろうか。果たしてわたしは京都から避難するだろうか、それとも…?

基本的にこの集まりは主催者扉野さんの意向で、親子連れの方には、積極的に招いて、子供さん同士を遊ばせるエリアを作り、大人は話、子供は遊ぶという共通空間を実現させる、という隠れた企み?があった。
私がはじめて参加した第2回では、参加者が子供連れの方が多かったが、それ以来では、今回久しぶりに子供さんが多く、畳の上におもちゃを広げて遊んでいた。だからその意図は実現されていたといってもいいかもしれない?
第2回は夏場ということもあり、部屋が二つに別れ大人と子供のエリアが離れていた。
今回は寒いので、大人も子供も暖房のある一部屋に集まり、大人が横でひそひそ話すなか、子供はよく泣き笑い遊んでいた。(一人だけ学齢期のお子さんも来ていて彼は静かにしてなんと参考書を開き勉強していた…。)
お母さん方は、ときどき子供に近づき、軽く注意し、他の大人もときどき少しかまい、あやし、また話に戻る。しばらくするとまた騒がしくなり同じことが繰り返された。
それはなんとなく、話す内容の深刻さを和らげる効果があったと言えるだろう。
この集まりの最初と最後には、いつも扉野さんが本堂に参加者を促し、そこで扉野さんが本職である真宗のお経をあげる。
そのとき、なぜかそれを聞き付け、扉野さんの小さいお子さんが彼に近よっていき、まといつくのだが、彼は嫌がらずにまとわせておき、お経を途切れさせずに読み続ける。
そして、最後に近づくと子供を膝の上にポンとのせる。すると大人しくなるのが見ていて可笑しい。
帰ってからも、そこにいたときの温かい感じが、炭火のように持続して、残っているのを感じた。
次回から、ブッダ・カフェは、毎月25日の定例となる告知があった。時間は13時から17時、場所は中京区四条富小路下がるの徳正寺。