ブラームス交響曲第三番 第三楽章をドラマ『看取りの医者・バイク母さんの往診日誌』(TBS)で聴く・父のこと

今日仕事から帰ってごはんを食べていると、生前の父の親友のHさんから電話があった。
じつはHさんは、わたしが留守中も電話をかけて来られていたらしく、母がそれらしいことを、わたしが帰ってすぐ確か言っていた。
(二年半前にくも膜下出血による脳梗塞を起こした母は、いまもまだ話すことが意味不明のことがよくある。とくに固有名詞が出てこないので「あの人」とか「彼女」とかしか言えず、いろいろ前後左右の状況を聞き出し、その人物を特定しなければならない。おそらく固有名の認識と表現というのは、脳にとりかなり高度で負荷のかかる作業なのだろう。)

わたしの父はちょうど16年前、1995年阪神大震災の起こった1月17日に容態が急変し、21日に亡くなった。
震災が直接原因ではないが、父は腎臓透析を週三回ほぼ一日かけてやり続け、まる7年経っていた。やはりあのような災害は、病人に見えない負荷をかけるのだろう。

今年がはや17回忌の年にあたり、昨年末早めに親族だけで17回忌の法事をした。
そこで、わたしは集まられた親族に、父の17回忌を記念し父の文集を出したいという希望を述べた。なんでもいいので父に関する思い出を書いてほしい、と勝手なお願いをした。
本当なら、今ごろできてないといけないところだが、まったくもって言いっぱなしで、言い出しっぺのわたしがまだ何も書けていない。
というか、父について書こうとして、はっきり言って父についてわたしが何もはっきりしたことを知らないことに気付いた。
たとえば何年にどの小学校を出て、何年に中学を出てといった履歴はおろか、父がどんな考えを日頃抱いていたか、何を思って仕事をしていたか等、よく考えれば、家族がそういうことを一番知らないのである。
そういうことは、たとえば父が使っていた本棚から見つけた父の日記(手帳にその日の出来事をメモ程度に書き残しているもの)を見て、おぼろげながら、うかがい知ることができるのみだ。

それとも、やはり確実なのは、生前父が親しくしていた方々や、一緒に遊んだり仕事したりしていた方々のほうが、父がいかなる人物であったかをご存じであり、それらの方々に父について直接聞いたり書いてもらったりすることだろう。

先日、父の親友であった Hさんから、奥様が亡くなられたとの喪中葉書をいただいた。
かなり以前に父の7回忌だったかの法事でお会いして以来、連絡してなかったので、そういったことも存じ上げなく、遅ればせながらお供えを送った。
その際、父の文集(?というのが最適な呼び名かはまだよくわからない)を作ることと、ぜひ父のことで覚えておられることを書いて送っていただきたい、と不遜なお願いを手紙でお伝えしていた。

今日、Hさんからお電話で、その依頼に快諾のむね、ご返事いただいた。
しかしHさんは、いろいろと書きたいことが、箇条書きにあげていくとなんぼでもでてくる、というようなこと、またご親戚の方の看病をされているそうで、そんなにすぐにはかかれないとのことだった。
(なお、手紙に紹介したこのブログアドレスにアクセスしていただいたようで、わたしがいろんなことに首を突っ込んでいる、ような話をしていただき、父も喜んでいるだろう、みたいなことも言っていただいた…ちなみにこのことを書くのは、原稿のプレッシャーをかけるためではありませんので…念のため)

はたして、父がこのようなこと、とくに文集(といってもどんなものになるかわからないが)なんかを作ることを、どう思うか、いいか悪いか、いまだによくわからない。
しかし、亡くなって17年になって、わたしはようやく、父に向き合ったような気になっている。たぶん17年前にそうだったように、ただそのときまったく、このような考えは起きなかった。
わたしにはおそらく、わたしにとり父が何ものだったかを考えることしかできない。父本人が社会的にどんな人間で、父の友人や父の会社の人たちが、父をどのように見られていたかは、子供であったわたしには、死角であり見えないのである。
だからわたしが、そのわたしが知らなかった父を知ろうとすることが、それができるかどうかわからないが、いいことか悪いことかはわからない。また父がそれを望むかどうかを判断できない、また父の日記も、見ていいかどうか。
しかし文集は、どんな方針もまだ立ててないが、作ってみたい、と思う。
父は病気だったこともあり、最近時々新聞等で見かける「自分史」や「エンディングノート」なるものを残さずに死んだ。
昔はそれが普通だったし、そんな時間もなかったのだ。
それに代わるもの、ということになるのかもしれない。


今日、Hさんから電話をいただいたとき、テレビでドラマを見ていた。
大竹しのぶが主演の医療ドラマだった。
大竹しのぶ演じるみどりという医者は、医院を開業していて、終末医療を病院でなく、自宅で行うケアを専門としていた。
かたや娘の貴地谷しおりは、薬品メーカーのプロパーとなり大病院の医師を相手に仕事しており、母のやっている自宅で患者を「看とる」というやり方に、深い疑問を持っており、母親とは、自分の幼くして亡くなった弟の墓参りで顔を会わしても、言葉もろくに交わさない。
(…そういえばHさんは、大手薬品メーカーのプロパーだった。父は毎年そのメーカーが作る大振りの手帳をHさんからもらって、それに日記を書いていた…)

どうやら、大竹しのぶの家族は、その幼い弟を急性白血病で亡くしてから、家庭崩壊してしまったらしく、大竹はその子が帰りたがっていた家ではなく、病院でその子が息を引き取ったことに、深い後悔があったようだった…。
大竹の夫は、途上国の医療を現地で続ける著名な 医師であり、家にはほとんどいなかったが、その派遣地でテロに会い、怪我をして帰ってくる。
怪我はなんとか治るものだったが、じつは検査により、大竹は夫が不治の病に侵され余命がないことを知らされる。
家で看とるか、病院で延命するかで、母子は意見が食い違う…。

ドラマでは、自宅で空のみえる部屋でブラームスを聴きながら、大竹に終末医療を受けていたある大学教授が、娘の希望を受け入れ、病院で延命治療を受ける決断をしていた。
それと対称的に、ある農家の寝たきりの老婆が、借金のため家を売りたがっている息子夫婦に見切りをつけさせるため、痴呆の症状を装い、病院に送られる手はずになるが、直前にばれて、借金は土地を担保に融通することになり、家は残し、結果その老婆は代々農業をしていた家で療養できることになる。

震災で、生まれ育った土地を追われ、避難先で就業するしかない方、また家をなくし、仮設で暮らしている方のことを思うと、この看取りというのは意味が深い。
また、現代医療がなかばわれわれに無意識に選択させる「延命治療」がはたして最善な選択なのか、について考えさせてくれる。

わたしの父は、亡くなる前日の深夜、息が止まりかけたが、人工呼吸機により、朝まで延命した。
その延命作業をするために入ってきた医師を妨害するため、父の母、つまりわたしの祖母は、ベッドのそばから動こうとしなかった。(わたしたちが祖母を運んだ)
祖母は、父が亡くなってから「仏さんにあんな乱暴なことをして」とずっと怒っていた。
かといって、父の母である祖母の悲しみが、われわれより深くないとは言えない。
むしろその結果として、そういう行為に及んだと言える。
祖母は明治末期の生まれで、もう103歳になろうとしている(たしか今月が誕生日だったはず…)。まだなんとか元気だ。

しかし延命が常識になったいま、このドラマのような自宅で看とるやり方は、なにか大切なものをわれわれに投げ掛けている。

その空のみえる自宅で、死ぬつもりだったドラマの大学教授は、自分の死が自分のものだけでなく、残された家族のものでもあるということに気づき、娘の希望を入れ、病院に入るのである。
家族はなぜ延命を望むのだろう。おそらく愛する家族・病人のために現代医療的に最善を尽くした、という証を得たいのではないだろうか。
ドラマのなかで、チューブに繋がれ口も聞けなくなった父親をみて、娘は延命が本当に父親のためになったのか、と深い疑問を口にしていた。

この問いに答えはない。しかし、この二つの家族のあり方を、大竹と貴地谷母子はみて、自分達の夫であり父を自宅で看とることを決心する。

このドラマは、新聞のテレビ欄によれば実話をもとに作っているらしい。
ドラマのなかで医師役の大竹しのぶRCサクセションの歌をカラオケボックスで歌うシーンがあり、設定では彼女は清志郎の大ファンになっていた。
これは忌野清志郎が先年不治の病で亡くなったことの関連に思える。
清志郎の歌がなんとなく、文明への呪詛とアナーキーな原始への憧れを表しているからだろうか。
いずれにせよ、この悩みは明治時代にはなかったのは確かである。
しかもあの原発事故後に慣れ親しんだ土地から引き剥がされた福島県の方々、そのなかにお年寄りも多かったことを思うと、言葉がでない。年配のかたが先祖代々親しんだ土地に残られたくなるのは最もであり、その種の悲劇が無数に進行して、今もまだ継続していることは、忘れてはならない。

ところで、わたしがこの記事を書くことを、もっとも促したのは、このドラマ内で、大学教授が好きで聴いていたブラームスの曲だ。
わたしはブラームスが好きで、とくに父が亡くなった直後よく聴いて好きになった。
番組では、教授が病院に入るかどうか考えるとき、ブラームスの3番の交響曲のあの第三楽章を流していた。
これは悲しいがモーツァルトを思わせるシンプルな旋律、おそらくブラームスの曲のなかで一番胸を打つ曲であり、クラシック音楽、交響楽のひとつの頂点を極める作品であるとわたしは、聴きながら再認識した。
父は、若い頃から音楽が好きで、自分でもギターを弾いていたし、クラシックのレコードはかなり集めていた。
ただわたしと一緒に聴いたり、コンサートに行ったりということは、わたしが覚えてない子供のとき以外は、あまりなかった。
しかしいまは父のことを考えずにブラームスを聴けない。それを父が好きだったかどうかはわからないが、とくにこの曲を、あの頃よく聴いたこともあり、曲のなかにすでにわたしが作ってしまった父を見てしまうからだ。

しかしもしかするとブラームスも、亡くなった親しい誰かを思いこの曲を作ったのかもしれない。聴くものにも、だから自分の親しい人のイメージを抱かせるのだ…。
ちなみに、こういったシンプルな構成の名曲は、モーツァルト短調の曲によくあるが、モーツァルトは天才であり、なかなか余人をもって越えられるものではない。
あのようなパーフェクトな美は、神かモーツァルトしか作れない。
ベートーベンも、第7シンフォニーの第二楽章が、このブラームスの第三シンフォニーと似ているアダージョを作っているが、ブラームスの方がモーツァルトに近い完成した美を持っているとおもう。

いずれにせよ、名曲はものすごくシンプルきわまりない構成でいたく覚えやすい旋律で、深く心を打つ。
ビートルズの歌にもそのようなものがあるが、いきなりイントロなしでメロディではじまる(イエスタディやイン・マイ・ライフやガールを聴いてみよ、いきなりはじまるでしょ?)のも特徴だ。
人生も、重要な出来事や決断もたぶん、シンプルに現れ、いきなりはじまっている。

それは、また小林秀雄がよく書いていた、美しいものは人を黙らせる、という言葉を思い出させる。
言葉を忘れるのである。