さくら散る〜いく年ぶりに公園にて見ておセンチになる

さくらが咲くと柄にもなく浮かれてしまう。しかし、自分でそう思うだけで、どうも素直に喜びを表に出せない性質なのだろう、かえって不機嫌になり周りからはなんとなく怖がられるようなことが、前からあった。
急に進展する季節の前で気ばかり焦ってしまい、足をバタバタさせているのだが、それを抑制しようと自制し、身体と心がバランスを失ってしまうのだろう。
そういう意味であの萩原朔太郎の詩〜
みるみる車輪が逆さに回り(『春』)
というのは、良くできた表現でさすがとあらためて感心する。

今年の開花は例年より遅く、わたしが最初に咲き始めを見たのは、4月8日の日曜だった。
この日、用事で阪急で大阪梅田に出た際、あの淡路をでて十三の手前で信号待ちするとき、いつもよく見える線路際のさくらが、見事に咲いているのを車窓から眺めた。
わたしの家の近くはその頃まだつぼみだったので不意打ちに思えたが、はるか昔、小学校の入学式で校庭にさくらが咲いていた様子を、なぜだか久しぶりに思い起こした。
そのすぐあと、東京から前の会社でお世話になった方が出張で京都にこられ、北野天満宮平野神社のお花見に同行したとき、ふと、今年のさくらは遅かったですね、とわたしが言った。
するとその方は、いや、昔に戻ったんですよ、昔は学校の入学式のときにさくらが咲いてたでしょう?最近は早ければ3月に咲いて入学式のある4月初旬には散ってしまってたけど、と言われた。
それで、なぜ阪急の線路沿いのさくらを見て、入学時の校庭のさくらを思い出したか、わたしは妙に納得させられた。
今年、大学はかなり入学式が早いところはあるが、4月8日より後に、入学した方は、さくらの花のしたで入学式を迎えられたのではないか?
その方と、平野神社に行った10日は、ほぼ満開で、たくさんの人が花見に来られてい、拝殿ではなんと笙や琴の演奏が奉納されていた。
毎年やられているだろうが、昨年のこの頃は花がもうなかったのではないか?

そして、今日17日、すでにそれから一週間を経たのに、わたしの近辺のさくらは、まだ花を半分ほど残していた。
知人と、そこも昔子供の頃よく連れてきてもらった場所だったが、風に散るさくらを惜しみながら、眺めることができた。子供がたくさん遊びに来ていた。
散歩の犬と会うと、近寄っていったり、滑り台を裸足になり降りたり、なんらあの頃と、変わりない風景に、不思議かつ当然な思いを抱くことができた。

ああ、おまえは何をしてきたのだと…

いやそうは思うまい。しかしたぶん、春の日差しは、こんな悔恨にも優しいのだった。
平野神社のさくら↓