11月のことば

さすがに1ヵ月も何も書かなかったことになり、自分のなまぐさぶりにあきれてしまうが、気になったこと、新聞の記事などからメモ程度に書いてみる。

これは、10月だが、目に付いたので取っていた記事。

…最近は、ムラカミハルキにはまっている。新作は、まず英語の翻訳で読む。
いやいや、気取って書いているんじゃない。自分は最近の村上作品のいい読者ではなかった。『海辺のカフカ』で15歳の少年が筋トレをしてコルトレーンを聴く描写に鼻白み、追うのをパタリとやめた。村上特有のしゃれた比喩やジョークさえ、「なんだかなあ」と鼻につく。ところが英語だと、ずっと肺腑にしみる。…
 文章がうますぎるから、日本語だと一瀉千里(いっしゃせんり)で読み終える。英語で読めば、立ち止まり、考え、ゆっくり読む。すると表層部の洒脱や軽妙が抜け落ち、物語のむきだしの骨格が現れる。…
 村上作品は、ゆっくり読む、立ち止まって考えるという、いわば「反時代的考察」を要請する世界文学なのだと、逆輸入で気づく。
朝日新聞 2012年10月30日甲乙閑話 近藤康太郎「英語で読む村上春樹」)

その村上春樹のインタビュー集が、文春文庫で発行された。いまさらながら、海外での人気がすごいことが、このインタビューのもともとの掲載雑誌が、フランスや中国、韓国であることで、認識される。

…日本の戦後から冷戦体制、高度成長期までは、一つの社会の枠組みというのがあったから、自然な治癒力みたいなものが社会にはあったと思うんです。いまではその自然治癒力というのが社会的混沌の中で揺らいで、衰弱していますよね。そのぶんフラストレーションが深まってきている。だからオウム真理教の事件は起こるべくして起こったというところもあると思うんです。そしてだからこそ小説というか文学というのは、今ここで再編成みたいなことをしなくしゃいけないんじゃないかというふうに僕は思っているんです。ベルリンの壁が崩れちゃった時点で、社会のいわゆる二極構造というか、そういうものも崩壊の過程に入ったんですね。
 日本の場合は、それとはちょっと時期的にずれていて、バブルの崩壊があって地価が下落して、九五年というのはそれがいちばん出てきたときですね、地震サリン事件。それまではそこまで明確ではなかったということです。人はそれまで危機感をあまり実感として抱かなかったんじゃないかな。ただ僕の場合、二十九歳のとき小説を書いて以来、そういう基本的な危機感みたいなものは個人的にずうっと感じていました。それはやっぱり僕自身が七〇年闘争みたいなものに対して深い絶望感をもったからかなという気はするんです。今そこにある言語に対する不信感みたいなもの。
 (文春文庫『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです〜村上春樹インタビュー集 1997-2011 「海辺のカフカを中心に」<文学界 2003年4月号初出)

それと、最近よく話題になっているのは、出生前診断の是非、具体的にはその診断結果が招く、ダウン症胎児の問題である。この問題が提示するひとつの側面は、あの「ソフィーの選択」に似た状況が、われわれにかなり近しい場所で、頻繁ではないが、起こりうる時代に突入したということではないかと思っている。大澤真幸氏は、原発問題は、「ソフィーの選択」問題であると、著作で語っていた。またこれについては、後日考察したい。

いずれにせよ、現代があの白熱教室のサンデル教授が言うごとく、「選択」の時代であること、そして、それは以前は、前向きな、選べることが多い、自由な時代の代名詞で、よい意味合いで使っていたはずだが、いま、それは、どちらかといえば、「ソフィーの選択」のような、非常に苦しい、人間の極限的な問いかけ、選ぶに選べない選択を強いられる、という苦くせっぱつまる意味合いを持ってきているように思われる。

その点も、その大澤真幸氏は、神学的な考察を著作『夢よりも深い覚醒を』(岩波新書)で展開されていた。(以前、朝日新聞の書評に紹介されていたので、このブログにも触れた本です。)その紹介は、後日またしてみたい(が、できるかどうかわからない。。)。

さて、今月最も印象深かった記事は、実は今手元になく、ここに書くことは困難だ。その代わりに、先日、二条寺町の時々行く古本屋さんで見つけた1971年の朝日ジャーナルに、面白い記事が載っていたので、最後に紹介したい。
あまり古さを感じさせない、今でも通用する内容であり、驚きを禁じえない。

 八月下旬リスボン大学で開催の「国際学校保健学会」で、電気針による色盲治療の方法とデータが日本人学者によって報告され、テレビでも実演放送された。
 三千年来の古典伝承的であった東洋医学に、近代医学の方法論で新生命を吹込もうとする試みは、一九五二年、わが国では市井の一開業医によってはじめられた。それが「良導絡自律神経学会」の名のもとに五九年に研究機関誌を創刊し、いま通巻約一八〇号に達している。
…戦時中、薬品欠乏のとき、米軍の捕虜の病気を鍼灸で治療した。それが「針と火で拷問」したということで問題となった。米占領軍は、たとえ治療に有効だとしても「非科学的」だといって鍼灸を禁止しようとした。これに対し盲人たちが生活権擁護のため抗議デモをもって抵抗した。
 当時、鍼灸を医学の立場から擁護したのは京都大学である。中国文学・哲学などの研究で京大がすぐれた業績をもつことや、早くから関西財界に日中友好論が強かったこととも、無縁ではあるまい。
 東京は何かにつけ米国の植民地的だ。東大が西洋文化輸入の「狭い門」だった悪い伝統が、いまだにぬぐいきれない。
 鍼灸を「非科学的」と断じたその科学的思考とは、いったい何であったか。科学研究で最も重要なことは、科学の限界と相対性を認識することであろう。西洋医学のしそうには絨毯爆撃的な直線短絡性がある。病気は治ったが患者は死んだという話もある。
 明治のはじめ西洋医学を取り入れたのは善であった。だが東洋医学を悪として排撃するのではなく、たとえ悪としてもそのなかに善を認めて生かし、同時に善のなかに悪を見て慎重たるべきであった。一辺倒は無個性だ。
 ニクソン・ショック依頼のわが財界の中国向け地すべりにも、無個性的追随の感を禁じえない。外務省の一辺倒的もこまる。自分自身のものをもち、しかも寛容に他を受入れる大人であってほしい。
 (朝日ジャーナル 1971 VOL.13 No.35 9.17 風速計鍼灸と科学」)

この記事の余白に、手書きの万年筆の達筆な落書きがあった。「此下の論文:痛快である。何回讀でも心がスーッとする」
また、「医学の立場から擁護したのは京都大学である」という文章のあとに、挿入的な手書きで、「沢田流鍼灸術の澤田博士京大の教授など先頭」と書かれていた。
この本を持っていた方は、鍼灸術に詳しい方だったのだろう。