夏の終わりの「旅」〜母の検査に付き添う

ここ数日大分涼しくなって一息つけているが、騙されてはいけないと、どこかで思うようにしている。
今年は猛暑と豪雨の夏だったし、ある人によれば、春先から異常だった、という。
9月はどんな様相を呈するだろうか、油断のならない年である。

あまり間が空くとまたまた何をやってるんだと、お叱りを受けそうであるので、日記書いてみます。
今日は、タイトルのように、旅のような、しかしなんというかしみったれた旅と言おうか。ただ、不思議と終わってみると、感じはいよいよ旅に似た一日であった。
この異常な季節に呼応してか、食欲をなくし、体重がみるみる減ってきた老齢の母を、掛かり付けの診療所を中心に、診察と検査に週一度、多いときで二度、連れていきはじめた6月から、もう三ヶ月経った。
まだその原因はわからず、母の主治医と相談した末の今日の検査だった。
丸一日かかるよ、とは言われていたが、朝9時に受付を済まし、検査を終え、少しベッドで休ませてもらってから病院を出たのが午後4時、たしかにフルタイムだった。
幸いというか、結果は異常なしだったが、夏バテ気味の高齢の母にはつらい検査だったろう。
あとから思えば、不要な検査だったかもしれない。
他の疑いもないとはまだ言えないが、検査するところが今日の大腸の内視鏡を残すのみ、みたいな段階で、原因が見つからないとすれば、これは、やはり母が常々口にする「歳のせい」というのが真実なのかもしれない。
わたしは、そういう高齢者特有?の体調の変化にはまるで素人であった、というのが実態で、へたに右往左往したと、いうべきだろう。
あたふたするばかりで、実質的に有効な手段、たとえばごはんを粥にするとか、野菜をミキサーにかけて粉々にするとか、いう方法を知らず、また調べもせず、母がせきこんでごはんを途中でやめてしまうのをみて、どこか医学的な異常がないかを、しきりに探したがった。
それが逆に母に対し負担になったかもしれない。
しかし医学の恩恵を受ける以上、多かれ少なかれ、検査検査で病院に定期的に通う方法は避けられないものだ。
ということで許してもらおう。

ただしかし医者は、たしかにプロで、どこかこの老齢という不確かだが、なんやかやいってそういうしかないものを、ずっと診断の余白においていた気がいまはしている。
ある母と同年輩の方と話していると、医者に喉がおかしい食べ物がうまくのみこめないし、夕方は咳が出て噎せる、と訴えても、カルテにある年齢を見たとたん、ああとまともに受け取ってくれない、と嘆いておられた。
医者もまともには「年のせい」とは言えないから、あれこれ薬をだすものの、本音は「ああ」の次に飲み込むことばにあるのである。
ともあれ、母の身体になんらかのステージがあり、それが一段上か下かわからないが、シフトしていく時期に当たったのは事実らしい。
それは病気と言えば病気だが、仕方ないいわば「健康な」推移ともいえる。
ことに、五年前にくも膜下出血で、手術をしたあとは、脳の機能が戻りつつあるものの、かたや認○症に向かいつつある身で差し引きゼロか悪くいけばマイナスになるような始末では、残念ながら人様よりは、何事も早くくると思わねばならない。
それは、近所に同じ病気で手術後、この方は手仕事の職人さんで、幸い手足動きいまも仕事を続けておられるのだが、その旦那さんのことについて、つい昨日、奥さんが言っておられたことだ。
「脳をいじった人はやっぱり早いそうよ」と、あけすけのない人柄なのに似合わない小声でわたしに言ってくれた。
デイサービス、デイケアなぞという、サービスについていよいよ考えねばならず、その利用資格を苦労して取り、さてどの施設にしようか、見学に行ってくださいとはいわれたが、と頭を悩ませていた矢先の、この夏のはじめの体調不良で、なにごとも、はじめる時期とタイミングが逃すと、ずんずん遅れが出るものであるなぁ、とわからせられた夏でもあった。
嫌がる母に、腸を掃除する飲み薬を飲ませ、トイレに行って、看護師さん呼ぶベルを押してよと、その度に強く指示し、まだまだとまた薬飲ませ、いつ終わるかなかなか手強い検査だったが、陽の暮れる前に、なんとか終わってくれた。
徒労であったが、それがそうであることが、何より嬉しい類いの、不思議な旅であった。
検査室の前の廊下に長椅子があり、検査中、その椅子に座り、同じ椅子の横にあった本棚にあった本をいくつか見ていたら、夏目漱石がイギリスに留学中に訪れた「ピトロクリの谷」を写真入りで紹介している本があった。
これは漱石が神経衰弱を留学先のロンドンで患い、その療養のため訪れたスコットランドの避暑地で、漱石の『永日小品』の「昔」という章に書かれた場所である。
その場所の写真がたくさん紹介されていた。
わたしはかなりそれを見て満足した。まるで実際にそこに行ったような感じがした。
その直後、検査室から母がかなり痛がる悲鳴をあげあじめ、その思いは中断されたのだが。

病院の帰りになにかお腹に負担のないものを、と考えながら車を走らせていたがなかなか見当たらない。
母は検査のため一日絶食していた。
単なる道路の看板に曼殊院とあったのをみて、観光客向けの店ならお粥的なものを出しているかもしれない、と思い信号を曲がり、結局曼殊院門跡まで来てしまった。
ただここには昔からよく見るお茶やさんがあった。
一度入ってみたかったということもあり、曼殊院の駐車場(「参拝客以外は駐車料9500円。領収書必要な方は発行します」と謎のようなおどしが看板に書かれていた。)に車を停め、池のある弁財天の社まで歩く。
その池のすぐよこに茶屋があった。
「弁天茶屋」という名で「ゆば」が売りの日本家屋の座敷に、テーブルと椅子がおいてある店だ。
「ゆばうどん」「ゆばそば」「ゆばカレー」等がメニューにあった。
座敷の向こうが林で、欄干のついた縁がせり出していた。
窓が開け放たれていて、樹にすぐ触れそうだ。
しかし真夏はクーラーをかけて締め切らないとここらも暑そうである。
池はすぐ眼下にあり、大きな錦鯉が泳いでいた。水はこけのせいか緑に濁っている。
母はゆば雑炊を食べた。わたしはゆばカレーにした。
なかなか「ゆば」というのも食べる機会はそうないが、栄養がありそうだ。
今日の「旅」の終わりに相応しい店だった。