怒ってしまうといけないのに〜開高健『声の狩人』

最近はめっきり少なくなってしまったが、ささいな行き違いでつい声をあらげて怒って、相手に言いつのってしまう、ということがある。
なぜやってくれないんだ、なぜそんなことをやるんだ、自分の主張をここぞと言いつのってしまうことが、サラリーマン時代に管理職になって、その弾みで?よくやったものだった。
よくないな、と思いつつ、怒り出すと人間、どんどん怒りがこみあげてくる。
内田樹先生が書いていたが、怒ると決めるから人間は怒るのだ。
まったく同じ場面で、笑うこともできる。
その喜ばしい方になる場合も少ないがわたしにもあった。
さきほどETVで、女性管理職特集をやっていたが、怒りを押さえ冷静に指導し、ハプニングを笑いに持っていける力があるか。それが、管理職の腕のみせどころであろう。
そのどっちにも転ぶ(人間とはなんと不安定な生き物か)場合で、怒ってしまうときは、自分自身がアップアップしてるケースが多かった気がする。
あれもしなければならない、これもしなければならない、時間がいくらあっても足りない、と一人でテンバッテしまうとき、近くにやたらのんびりしたまのぬけた受け答えのやつがいたら、いささかとばっちりといえなくもない被害にあってしまう、みたいな、とんでもない発散の仕方で、悪い上司はストレスを解消していた。
ありていにいえば、そういうことになりそうだ。
優秀な上司はそんなことはしない。
なんと悪いやつは、怒りながら、意外と内心スッとしている。
怒られた方は、正論めいたことを感情的に言われ、内心忸怩たるものは消せず、いちようにシュンとせざるを得ない。
怒るとうまくいくと言う人もなかにはいるし、まれには、そうしないと動かない(本気にならない)ケースもあるが、たいてい、逆効果だった。
皆黙って黙々と仕事し出すが、ミスや悪くいけば、クレームにつながる失敗を誘発することもあった。
人間怒られれば、出る力もでなくなる。
言う方も、スッとしはするものの、なんだか大人げないのがテキメンにわかり、あとで猫なで声で機嫌を取ったりする。
なら怒るなよと自分でも言いたくなる。
怒るときは気持ちに余裕がないときだ。そして怒る原因となった対象は、じつはなにかメッセージめいたものを発していたような気がする。
テンバッテいるばかりが、能でない。ちょっと余裕をもって、少しやすんで、視点を変え、冷静に取りかかればどうですか、というメッセージだったかもしれない。
それに気がつくのがいささか遅かった。だからいまのわたしがあるといえる。

いそがしがっているだけの相手には、本心で助けようとする人は現れない。
とは、わかっているものの、まったくヘボな上司だった。
しかし、いま思えば、あの頃、怒ったり怒られたりしながら、毎日顔を合わせていたことが、いまは、無性に懐かしい。
ともかくも身を寄せあって働いていた。みんながんばっていたな、と感謝めいた思いが沸き起こる。
あのとき、あんなふうにいうべきじゃなかった、でも上司もただの人間なのだ。
当時色々アドバイスをもらっていた年上の別の会社のスーパーといえるような優れた管理職の方がいた。
いつか、会社のリーダーなんてミスジャッジは山のようにある、と笑いながら言っておられたことがあった。
もちろんそれはじつはそうであってはならない、避けるべきことだ。
しかし未熟なものが、力を合わせ、そうした齟齬は発生しながら、成長していく、そんな雰囲気はあったとは思う。
いまはっきり言って、老いた母や、近しい人くらいしか、怒りをぶつける対象がないとは、いないよりはマシだが、さびしいことには違いない。

そんな日日を送っているなかで、久しぶりに、感情を出せる相手がいるのは、なんとありがたいことか、そう思いいたれば、ちっぽけな怒りなど吹き飛ぶ。

怒った直後の心のなかのさびしさはなんなのだろう、こう考えさせてくれるのも、ひどく貴重でありがたく思える。
本棚で、さっきまで読もうと思いえがいていた本が、そんな後悔めいた気持ちのせいで、手にとっても、なんだか心が定まらない。
もやもやして、あらためてこんな思いも久しぶりだと思い直す。
昔、子供の頃を思い出すと、家族のなかでも、ちょっとしたいさかいは、星の数ほどあった。
いまは、どうだろう。なにかあってもメールとかするだけになっていやしないか。
感情のわだかまりがあっても、押さえ込んでしまっている。
怒るのはよくないことだ。しかし怒れもしないことは、じつはもっとさびしいことに思える。
わずかに本棚でことばが目に入り、読みたくなる本を見つけた。
宮沢賢治詩集〜「春と修羅」彼は見かけやあの「雨にもマケズ」の詩のみかけによらず、激しい感情の嵐を抱えた人だった。)
「ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」

もう一冊は「声の狩人」開高健の昔の社会主義国イスラエルユダヤ人裁判をルポした作品である。
「しかし、いっぽう、たとえばアルジェリア解放闘争を見ていると、すくなからぬ衝撃を受ける事実がある。OSAのテロ行為に対するアラブ人たちの忍耐力である。OSAはアラブ人たちを牛か豚のように白昼の街頭で殺しつづけた。手榴弾プラスチック爆弾、ナイフ、自動銃、機関銃、ありとあらゆる手段を使って殺しつづけた。アラブ人を挑発して、憤怒に走らせ、報復テロ行為にでさせるのが目的だった。彼らがテロ行為にでればフランス官憲の強権を発動させることができる。事態を混乱におとしこみ、問題の解決をさきにのばし、自分のつぎからのテロ行為に対して大義名分をかぶせることができる。FLN(民族解放戦線)はこれを見ぬき、どのような挑発行為にものらぬようアラブ人を統制した。アラブ人はこれに従った。…中略…アラブ人たちは、黙ったまま、殺されていった。《眼ニハ眼ヲ、歯ニハ歯ヲ。オマエガヤルカラオレモヤル》という、二千年間、人類につきまとって離れなかった鉄則を彼らはやぶった。沈黙において、それを遂行した。」(開高健『声の狩人』光文社文庫 p.70-71)
イスラエルで元ナチスの将校だったアイヒマンの裁判を取材した「裁きは終わりぬ」のなかで、開高健は興奮気味に書いている。
このホロコーストの裁判のルポのなかに、(どちらかと言うと、第二次大戦終結後のあらゆる戦争裁判が残したものはこれだけだった、という意味で開高さんは、批判的に書いているのだが)こんなことばも見られた。
「(ニュルンベルク裁判や極東裁判でわかったことは)たった一つ、二度と戦争を起こしてはならないということだけだった。」
この戦争直後の世界的な感慨が、ちょうど12年前の今日、貿易センタービルに飛行機が突っ込み、崩れてしまったことは、みんな知りつつある。
開高さんは、あの9.11を知ったら、どう言うだろうか?いまの世界を見て、どう嘆息するだろうか?
すくなくとも、グラウンドゼロをまず見に行ったであろうし、おそらくイラクにも行き、今回のシリアのこともいろんな情報を集め、アメリカの出方を見守り、かつ洞察力溢れたコメントをエッセイかなにかで吐露していたにちがいない。
ちっぽけな怒りはどうでもよくなり、そんなちっぽけな怒りをあーだこーだ語れているいまがとてつもなく、平和に感じる。
昨日、母と外食後夜の町を車でうろつき、立ち寄ったブックオフで、『アンネの日記 完全版』が105円均一の棚にあり、思わず買ってしまった。
まだきれいなハードカバーの立派な本だ。
105円。
それではなにかいけないような、しかしありがたいような。