台風26号接近の夜、イーグルスのホテル・カリフォルニアを思い出す

何回かイーグルスのこのアルバムのことを書いている、がたまたま何となく書きたくなったのでー重複しますが、お許しを。
またまた更新が滞っていたが、祖母が足の骨を折り、山科の病院に入院しているので、見舞いに行ったり急に身辺が忙しくなったせいです。
祖母は明治44年だったかの生まれ、現在104歳!年齢からすると手術は無理と言われたらしい(そりゃそうだろう)。
しかし骨折したままだとかなり痛いらしく、あんなに我慢強かった人だったが、痛い痛いの連続なので、明日その病院でもおそらく最高齢の患者を対象に手術が行われることになった。
麻酔医がかなり最悪のケースなら目が覚めない、とわたしの伯父に事前説明をし、すぐに手術したかったが、わたしたち親戚にも顔を見せてから考えたいと保留したのだった。祖母は伯父と一緒に暮らしていて、まだトイレに歩いて行っていた。丈夫で病気もなく過ごせているので、普段あまり心配していなかったが、医学的な血液検査などによるデータはかなり悪いらしい(そりゃそうだろう)。
医学的には、たぶん長寿の謎はまだわかってないのだろう。データ的にはそうかもしれないが、わたしたちの目の前に元気な年寄りがずっといたわけだ。
いろいろあって手術にやっと踏み込むことになった。
今日病院に行くと、祖母は痛がりながらも、無事看護師さんにおむつを換えてもらい(このときが猛烈に痛いらしい)、安心したのか寝ていた。
無事手術、成功しますように。

さて、イーグルスの話であるが、このホテル・カリフォルニアが日本中どこでもかかるような大ヒットアルバムとなったのは1976年、アメリカ建国200年祭を祝っていた年で、わたしはまだ小学生だった。
わたしは早生まれなので、学年と年齢に差が出るのだが、たしか6年生だったと思う。
友達に熱烈なビートルズファンのH君がいた。彼からわたしはビートルズのLPレコードをよく借りた。
ある日、彼がわたしのうちに遊びにきた。その頃、遊びと言えば、レコードを一緒に聴いたり、わたしがFMラジオからカセットテープに録音した洋楽の最新ヒットチャートの上位の曲を聴いたりしていた。
そのころ、ベイシティローラーズという一世を風靡したアイドルロックバンドの人気にたしか火がつきかけていて、似たようなアイドルバンドがたくさんヒット曲を量産していた。
そんなのをわたしは彼に聴かせたと思う。
しかし彼はいまから考えると、そんなミーハーな音楽を好きなはずはなかったのだ。わたしは得意になり聴かせたつもりだった。ハローとか言うバンドの「テルヒム」という曲をわたしは気に入っていたが、彼はたいして感心したようには見えなかった。わたしはたぶん彼にビートルズのレコードを貸してくれ、といったのだろう。彼はちゃんと持ってきてくれた。
アビー・ロードだった。
小学生がなんぼなんでもLPをそんなにたくさん持っている訳はない、と思うであろうが、彼の家はわりとなんでも買ってくれる家だったらしい。
お母さんが料理教室を自宅でされていた。彼のお父さんは、彼には聞いたことはなかったが、どうも家におられなかったと記憶している。
わたしはそれがビートルズのバンドとして最後に発表したアルバムで、サージェントペパーズ(はもちろんまだそのときは聴いてなかった)を凌ぐかともいうべき傑作であることは、もちろん知らなかった。
しかし、H君はおそらく、彼の持っていたビートルズのレコードのなかで、一番いいと思ったものを、持ってきてくれたように、今になると思い出す。
わたしはそのレコードを何度も聴いた。ビートルズのヘルプもイエスタディも聴く前に、カムトゥゲザーやゴールデンスランバーを聴くとは!
あとになって、その不思議さを考える。
それはともかく、彼はもう一枚アルバムを持ってきてくれた。わたしたちは、それをその日は全曲聴いた。彼がすごく薦めてくれたからだ。
そして、わたしはそのイーグルスという、はじめて耳にするバンドの、夕暮れにうかぶビバリーヒルズホテルの写真がジャケットになっているLPも借りた。
正直言って、そのときはまったく、ホテルカリフォルニアのあの楽曲の魅力がわからなかった。
わかりかけたのは、それからはるか下り、たしか高校にもう行きだした頃、FMでイーグルスの特集をやっていて、それをエアチェックした(われわれはラジオから録音することがかなり多かった。当時レコードは2500円もしたし、レンタル屋さんもなかった)。
日曜日に、自分の部屋に掃除機をかけ、エアチェックしたそのテープを聴いていたのを覚えている。その時はいていたジーパンの感触や、干していたふとんを取り入れないといけないくらい、風がひんやりしてきたことや、山の端に夕日がくらい影を投げ掛け、オレンジ色の光を放っていたことも、うっすら覚えている。
しかし、まだまだわたしはわかっていなかった。
ホテル・カリフォルニアのアルバム最後の名曲、ラスト・リゾートを、なんと当時はかったるい曲だ、と思い、録音するのを途中でやめたのだ。
ラスト・リゾートのあのシンプルで繊細かつパワフルなドレミファと上がるリフの素晴らしさに気付いたのは、恥ずかしいことだが、それから約25年たってからだ。 
会社の店舗でBGMとして流していたFMで、どこかで聴いたメロディだな、と思い耳にそれを残したまま帰り、ごそごそ昔のカセットやCDを探して思い出しながら感動していた。
ラスト・リゾート、この曲のことをグレン・フライは「あの曲はアルバムの最後の(ジグゾーパズルに例えて)ピースだった」とあるインタビューで感慨深く答えている。

ホテル・カリフォルニア。この曲の最後のバース(詞)に、ホテルのポーターが「あなたはチェックアウトはできますが、このホテルからでることはできません」と主人公に言うシーンがある。
あの歌は物語になっていて、砂漠で蜃気楼みたいなホテルに泊まり、セレブたちばかりの豪華なダンスパーティ三昧の生活にもあき、「もといた場所に帰ろう」として、さんざんホテルの出口を探し回ってさ迷った果てに、ホテルマンにそう言われるのだ。
ホテルカリフォルニアが象徴しているものは、なんだろうか?

ホテルカリフェルニアの出た年から、25年後の2001年の9月、長く解散状態だったイーグルスは、ツアーの再開をきっかけにレコーディングをかなり久しぶりにやろうとしていたらしい。
ロング・ランというアルバムとライブアルバムを1980年直前と直後に出したあとは、メンバーはソロ活動に専念しだし、イーグルスとして活動するのは実に実に久方ぶりのことであった。
それがちょうど9.11のときのことだった。
レコーディングは中止になったが、ドン・ヘンリーはアカペラコーラスの歌を一曲のみ作り、その2年後に発表された二枚組のベスト・アルバムにボーナストラックとして収録した。
ホール・イン・ザ・ワールド。
「世界に雲がわき上がり、大きな悲しみの穴があいた」と彼らは歌った。アメリカが中東で戦争をはじめたからだ。
それから10数年たって、アメリカはまだ戦争を続けている。
ホテルカリフォルニアの意味はもうお分かりであろう。
わたしたちは「出口」を、探すことを忘れているのではないか。もといた場所がどこかどんなところだったかも、もう思い出せないのだ。
ようやくなんとなくだが、むかしホテルカリフォルニアが流れていたときの感覚に、また戻ってきた気もする。3.11があったからかもしれない。