東北旅日記(2011年)その1

ちょうど4年前の9月1日の朝、わたしは東北唐桑半島の巨釜(おおがま)・半造行きのバスのなかにいた。たしかJR気仙沼駅から最初に乗ったとき一緒だった乗客も途中で降りて、わたし一人だった。昔、小学生の頃、母の実家の京都府の山奥にとうじまだ国鉄だったバスで行ったときを思い出した。母の実家は終点の二つか三つ前の停留所にあり、そこらではバスのなかにいるのはわたしと弟だけになった。
子供だったわたしたちは運転席近くの一番前の席に移動し、運転手と少しだけ会話した。バスは停留所より手前の母の実家のすぐ前で止まってくれた。

あれから約40年後、場所も遠く離れた気仙沼のバスの運転手はわたしが前に移動しようとすると、これからカーブが多いのでたたないでください、と注意した。わたしはハッとして腰をおろした。
窓からは、だんだん近づく海がのぞいていたようにおもう。しかし道沿いにあらわれてきた倒壊した家屋にどうしても目が引かれた。
こんな高台にと思うような場所に、被害を受けた家屋やかつて家屋があったが更地になっているような場所がかいまみられた。
道沿いで郵便局、コンビニが普通に営業していた。それがなんとなく心強かった。

前日までの行程は本当に行き当たりばったりというか、危なげなもので、やっと目的地である唐桑に向かっていることがわたしを安心させていた。
それがはじまりなのに、なんだか終着みたいなホッとした思いがあった。それだけ、それまでがやけに綱渡りめいていた。

前夜遅くにわたしはたしか最終に近かったはずだが、JRの盛岡駅気仙沼行きの在来線に乗って、ようやく気仙沼駅に着いた。
車内では、高校生たちがほぼ席を満席にして、寝たりしゃべったりしていた。
わたしは昔のタイプのフレーム付きのバックパックを座席の間におき、彼らを眺めては、なんとなく教室に紛れ込んでしまった場違いなおじさん、と自分を感じざるをえなかった。何人かの高校生がわたしをチラッと見て、なにかを目線で送っていた。それはたぶん私にも覚えのある若い頃の独特の好奇心と、それとは裏腹な薄情さが混じった感情と見てとれた。
線路は急に山の近くを走りだし、わたしは窓から真っ暗に近い景色を不安げに見つめた。
ぽつぽつしかない街灯は、行く手の駅がまったく人家のない淋しい土地なのではないか、とわたしの心を恐怖とある種の冒険めいた期待に満たした。
はじめての土地にいくとき、やはりスマホは必要かもしれない。まだ当時スマホが今ほど普及してなかったし、いまもわたしは持っていないが、いまから思えばこういうときは欲しいなと思うほど、内心心細かった。
確たる情報のないまま動いてしまうわたしの悪い習性が、こうした心細さを招くのだった。
電車は盛岡発の最終に近い在来線で、気仙沼止まりだったように思う。たしか気仙沼から延びるもうひとつの路線は津波の影響でまだ再開されてなかった。

しかし、この一両編成の在来線は、若い女の子が車掌兼運転手で、わたしはなんとなく昔アニメで見た銀河鉄道999を思い出した。
盛岡駅銀河鉄道のポスターをみたが、そのほんとうのJRの特急かなにかより、学校帰りの学生たちで一杯のこの小さな車両を、賢治の童話にふさわしく感じた。
あの列車は今も走っているだろう。
いまも、夜中に不意に目覚め、夏の終わりの独特な倦怠感におののくとき、あのとき不安なおももちでゆられていた列車のなかの自分を思い出すと、なんとなく、力がでてくる。なんとかやっていけそうだ、これからも、といったような。

(これから折に触れ、思い出しながら、書いてみます。2015.9月記)