秋が来てもうたがあれば〜中島みゆき『愛が好きです』(新潮文庫)

どうやら、秋になってきた、いや秋が忍び寄り、夏が終わりかけているようだ。
なかなか微妙な季節であり、なんともいえない感傷に捉えられたりしませんか。
今日本棚で、かなり昔、学生の頃買った文庫本が目につき、職場まで持ってきた。
みゆきさんの詞集。

久々に目にすると、これは詞集であるとともに、歴とした「詩集」であるといみじくも思う。
戦後、アートとしての現代詩は、難解な迷宮にどんどん入り込み、大衆から離れていった。
それに反し、ポエジーの根は、フォークやニューミュージックの世界に根付き、歌として花開いたと言えるのではないか。
中島みゆきは、ユーミンや陽水とならびその華麗な花を咲かせ続けてきたように思う。

そして、松本隆がいみじくも述べた、「中原中也は、ことばという楽器を持った音楽家だった」と言ったという、その中原中也を密かに継承していたのは、中島みゆきだったのかもしれない。
松本隆の言う「ことばという楽器を持った音楽家」とは、古来、詩人と言うべき人たちの本質的な定義だから。

中島みゆきの詩は、たぶん現代詩の幾多の見知らぬ作品より長生きするかもしれないな、とさえ思う。

〜とめられながらも去る町ならば/ふるさとと呼ばせてもくれるだろう/
ふりきることを尊びながら/旅を誘うまつりが聞こえる
中島みゆき『異国』)

われわれは書かれて活字で読む詩と、レコードに録音され聴き歌う詩を別物と認識して久しい。しかしそれは当然別様のものではなかった。
中原中也の詩は、メロディの付く寸前で、歌には至らずにとどまっている。それはしかし歌にもっとも近い活字詩にみえる。
中島みゆきの詞は、まぎれもなく歌われる詞であり、またたしかにスノッブな紋切り型に近いものもある。
だが、こうして活字になった詞を読めば、それが、読む詩にもっとも接近した詞であることがわかるような気がする。

中島みゆきのような歌手を持った、1970年からいままでの日本は、幸運だったとオーバーな気もするが、わたしは言ってみたい。

いま夜勤しながら書いています。