「親問題(おやもんだい)とオウム

今日は雨がひどくなって、はや3日目。
鴨川も近場の高野川も、竜とはこのことか、と納得するくらいおそろしげに濁流をうねらせのたくっている。
桂川ではすでに上流の日吉ダムが満水のため下流へ放水をはじめるとか。
不安一杯な京都市内である。

そんななかオウムの麻原をはじめとする主たる実行犯の死刑執行のニュースがあった。

まだ雨がひどい時間で、わたしは母の通院している病院に薬を処方してもらいに行っていた。
村上春樹の「1Q84」を読んだことのある人なら、あの雷と豪雨のシーンを思い出すに違いない。
思えば、あの事件は、平成という時代の中心に隠蔽されたなにかをあらわしている事件だったと思う。
だが幕引きはなにか妙に気忙しく拙速な印象である。
先日ある話の場に参加して、そこである方が「オウムの事件がなんだったのかちっとも解明されてないのに裁判が終わってしまった」と発言され、その機会を逸したことは、日本の今後に影響する、みたいなことを憂いておられた。

それについて、この場で知ったのだが、昔、鶴見俊輔先生が、「オヤ(親)問題」ということばをよく使われていた、ということを知った。
鶴見先生いわく、オヤ問題とはなにか、それは「解決しなければ生存していけない」問題のことらしい。

わたしはその表現はたしかにわれわれが若い頃ぶちあたった「存在問題」をうまくいい得ていると感心した。
「生存」といっても、それは動物的な生存のことじゃなく、人間的、つまり精神的な「生存」問題である。
むかし「カラマーゾフの兄弟」を読んだとき、次兄のイワンが「大審問官」という自作の詩劇を弟に語るシーンがあった。
そこに新訳聖書の最初にある悪魔がイエスに三つの質問をし、イエスを試す話が出てきた。

そのなかに悪魔がイエスにする質問「おまえがもし神なら、なぜパンをたくさん神の力で作り、飢えた民衆に与えないのだ?」と謎をかける。

エスはどう答えたか。
有名なフレーズ「人はパンのためにだけ生きるのではない」

わたしは「オヤ問題」とはその「パン以外の生存問題」であり、ある意味人間が動物とは次元の異なる悩みを持つ存在であることを語る問題、と解している。

さて、オウムの代表者、今日刑に処された麻原が当時の若きエリートたちを引き寄せたのは、彼が「オヤ問題」について答を持っていたから、いや、その前に「オヤ問題」を語る場を提供したからではないかと思っている。
それが多分にいかがわしい「ジャンクな」(村上春樹)物語であったとしても。
というのは、わたしが学生時代、ちょうどオウム真理教が発足したらしき1984年(わたしは村上春樹がその年を小説のタイトルにしたのは、それが理由だとに思う、ってそんなのは常識なのかもしれないが)、社会には「オヤ問題」を考える気風と、それをみんなで考える場というものが急速になくなり、個人がバラバラにその問題を抱えこむというあり方に、変わったような感覚を覚えているからだ。
バブル直前のあの時代、まずパンのことを考える健康な正直さが妙に新しく、思想や人生論は重く疎んじられていた。

とくにみんなで大事なことを考える機会やそれを磨く場は、痩せ細っていったように思われる。

あの事件は、大きくとらえれば、その時代の流れのなかにあると思われる。

「パンのみに生きるものにあらず」
この言葉は、キリスト教や宗教だけの問題ではない。
もしまだ若者と呼ばれるものがいるならば、かならず彼らがぶち当たる問題、「オヤ問題」と深くかかわる言葉であると思う。