父の「見送らない」奇癖 祇園祭

今日も京都はたぶん体感的には40℃以上の異様な暑さだ。
祇園祭山鉾巡行を関東の知人が見に来たので、一緒に見るつもりだった。しかし、わたしが急用ができ、巡行には間に合わず、知人も暑さのせいか気分が悪くなったとかで、市役所近くの薬局でOS-1を2本がぶ飲みし、難をしのいだとのこと。
地下街ゼスト御池で会うと、回復していた。わたしはコンビニで冷凍してあるペットボトルを買って持っていき、タオルを巻いて脇の下に挟んだらとアドバイスした。

その後喫茶店にはいるまで外を歩いたが、10分以上歩けない蒸し暑さだった。

知人は夕方17時32分の新幹線で帰るのというので駅に見送りに行った。駅構内の新幹線ホーム下のカフェに二人で少し冷たいものを飲んだ。
わたしはビールを飲んだ。昼間からそんなことめったにないが、夜勤明けだったこともあって気が緩んだのかもしれない。
ホームまで送らず、そこで別れることにした。

それでふと亡くなった父のことを思い出した。
父には不思議な奇癖があった。亡くなってしばらくしてから思い出したのだが、わたしや弟がもう独立して実家に帰っていて、これから帰るというとき、玄関には母だけが見送りに来て、父は決して見送りに来なかった。
じっと居間に座りテレビを見ていた。
これは無視してるのでなく、見送ることを我慢しているみたいだった。そういうことを、するものではない、というなにか教えがあるのかな、とあとから尋ねたかったが、理由はよくわからないままだ。
だが、今日、知人を、入場券で駅に入ったのに、ホームまで送らなかったことで、少しその感覚がわかったような気がした。
父には、身近な人を見送ることへのなにか含羞(がんしゅう)としか言えないものがあったに違いない。
それは、父の世代くらいでおそらくは滅びた日本人のなにか特有の感覚だったのかもしれない。
わたしには居間に一人座り、家をあとにするわたしたちに向けた父の背中がひどく懐かしく目に浮かぶ。
それはたくさんのことを語っているようでもあり、またなにかを教えてくれているようでもある。

いまはまだその一端がわかるにすぎない。