アラフォー5年鑑 5 ユーミン

アラフォーのしかも男子がこのニューミュージック界のいまだ現役の女王として君臨し続けているアーチストについてとやかく申しあげるのもおこがましい。
(あくまで、超個人的なわたしとユーミンの音楽との関わりを綴るだけですので、ユーミンファンの皆様はどうか大目にみていただきたい。また間違っている部分があったり、ご意見等ありましたら、お知らせください)
わたしがはじめてユーミンを聴いたのは、たしか小学生高学年だった1976年にヒットした名曲「翳りゆく部屋」であった。
山口百恵桜田淳子が全盛期だった。彼女らのヒット曲を流すラジオのヒットチャートに、聴きなれない女性の曲が毎週かかっていたのだ。
窓辺においた椅子にもたれ/あなたは夕陽見てた
ではじまるコーラスやストリングスのアレンジも重厚な少し退廃的で美しい名曲だ。
しかしいま思えば、あっ、あれってユーミンだったんだ!といまさらになり気付いて、当時はとくになんとも感じなかったのが正直なところだ。
いま聴き直すと、全盛だった花の中3トリオの歌謡曲ともまたよく耳にしていたガロやかぐや姫のフォークとも違う、新しさを満杯にした曲であった。
いまELTが歌ってても特に古くは思わないだろう。
このヒットからユーミンは、広い世代に受け入れられ、彼女が作った名言とされる「四畳半フォーク」と呼ばれた前世代のムーブメントに印籠を渡し、「ひこうき雲」のデビュー以来着々と作ってきた、ファッショナブルで恋のせつなさにみち、物質的な豊かさや都会の風景(♪右に見える競馬場、左にビール工場「中央フリーウェイ」…といったような)がちりばめられた彼女の世界で時代を塗り替え始める。
なおこの曲はユーミン荒井由美時代最後のシングル版で、以降結婚して松任谷由美として活動する。
たしかにこの曲は彼女にとっても区切りの歌だったのかもしれない。
彼女は1954年生まれで22で結婚、しかも18でデビューし、それまでには、いまもって合唱で歌われたりしている「卒業写真」「12月の雨」「瞳をとじて」など珠玉の名曲を作りつくしていたのである。
アートの世界の天才とは早熟なものだ。
ちなみに荒井由美時代のユーミンのバックをしていたバンドは高橋ユキヒロのいたティン・パン・アレィで、キーボード担当がのちに旦那となる松任谷正隆(カーグラTVでおなじみの)である。ユーミンデビュー当時彼はなんと19歳だ。
次なる私の思いでの曲は「守ってあげたい」だ。これは昔「泳げ、たいやきくん」という歌が大ヒットしたが、同じくらいな頻度で耳にした。
ちなみにわたしは当時この曲をこんな場面で聴いた。
あの当時わりと家族連れで日曜に野外で飯盒炊飯をみんなしていて、私は仲間とそんな人たちが集まるキャンプ場に行ったことがあった。
午後の太陽が照りつけ水が光り、人はひしめきあい、騒がしく、なんでこんな狭いところにみんな一斉に…と思う空間に、ラジオからか歌声が響いてあたりを満たしていた。
♪So you don't have to worry worry まもってあげたい♪
なにか人混みのなかおおきなボリュームでかかっていてなぜかみんな聴いているのが感じられた。
なんとなく、人混みで息苦しいくらいのキャンプ地に吹き抜ける、風のようだったのを覚えている。
「守ってあげたい」のヒットはユーミンが苗場でコンサートを毎年したりする前かあとかわからない。
が、どうもこの頃から、レジャー的なスポットでユーミンのスキーや海辺を舞台にした歌がバックグラウンドに流れ出したような気がするのである。
いまや避暑地やスキー場で欠かすことのできない音楽としてのユーミンの一面を物語る体験であった。
その後とくに意識して聴いたことのなかったユーミンではあったが、FM放送で毎週ユーミンがDJをするものが20年前くらいにあり(なんと今も続いているのを最近知り驚いたが)、視聴者の恋の悩みなどに回答する彼女のちょっと辛口で毒舌まじり?のコメントが面白く、よく聴いていた。
なかでもよく覚えているのは、中森明菜が自殺未遂したとき、マスコミが一斉に非難ごうごうだったのに、はっきり言葉は覚えてないが、
色恋に命をかけるとは歌に生きる人間としてあっぱれだ
みたいなコメントをし明菜をかばったのには、勇気のある方だと感心した。
なかなかそうは言えるものではなく、名声や立場を顧みず激情に走る純粋さに善悪はおいて敬意を表する詩人の態度であった。
その番組で新旧のユーミンナンバーをかなり耳にした。
Destinyやノーサイド、灰色のダイヤリー、ブリザード、真珠のピアス…あまり書くと素性を疑われそうだが、まさに日本の「円」と男女雇用機会均等法成立後の4大卒女子の就職率とともにバブルはユーミンをもナンバーワンに押し上げた。
毎年コンスタントに全曲リメイクでないオリジナル新曲によるニューアルバムを出し続け、大がかりなサーカスみたいなコンサートツアーをするのに悩みや葛藤、苦難がないわけがないだろう。
しかし、汗をかいて血のにじむような努力をするといったイメージにはほど遠い。
たぐいまれな体力、知力、才能、センス、そして不思議な独特の(人間には聴こえない周波数の音も含まれていると言われる)低音の声に恵まれた全知全能のまさにサイボーグのような強さを持った人だと思われる。
しかも、歌の中に貫かれる美の世界は、まさになんとなく彼女から一番遠いようでもある「かなし」という伝統的な大和言葉を感じるのである。
思えば、先に紹介した「翳りゆく部屋」の
♪輝きは戻らない、私がいま死んでも
や、「あの日に帰りたい」の
♪青春のうしろ姿を、ひとはみな忘れてしまう
であるとか、また「最後の春休みの」
♪春休みのロッカー室へ、忘れ物を取りに行った
狭い廊下にたたずんでいれば(このあたりうろ覚え…)なんだか急に泣きたくなった…
ずっと、ずっとうずくまっていたい
など、青春の刹那の輝きを永遠に繋ぎ止めようとする、必ずはかなくも負ける勝負に挑む情熱を常に秘めている。
これはさくら花を愛する日本人には共通の感覚なのだ。
しかしよくもあれほどたくさんみずみずしい恋の歌を作れるものだ。
きっと心はデビュー当時のティーンエイジャーのままなのであろう。
天晴(あっぱ)れとしか言い様はない。