ベートーベンもモーツァルトの子だった〜モーツァルトピアノ協奏曲第22番、第25番の謎に迫る

たいそうなタイトルだが、中身がまさに驚愕すべきもんなんだから、いたしかたない。
(もはや「週記」いや「月3記」とまで化しつつあるこのブログ、今後はテーマで勝負し更新の少なさをカバーしようという作戦)
さて、今年の春先から従姉妹の旦那さんがクラシックを聴きはじめているらしいのでなかば無理矢理貸していたCDが、今回の連休に親戚と会う機会があり帰ってきた。お役を果たせたか心もとないがひさびさにいくつかを聴いてみた。
そのなかに、このモーツァルトの協奏曲第22番と第25番をカップリングしたものがあった。
そして今あらためてこの曲の意外な魅力に感じ入る。
この曲はどちらもモーツァルトのいわゆる有名なナンバーとは少し種を違えた隠れた名曲といえるもので、コンサートなんかではほとんど演奏されない。どちらかと言えば地味な曲である。
22番の協奏曲はちょうどモーツァルトの曲の中でも有名で、コンサートでも好んで取り上げられる21番のハ長調ピアノ協奏曲と泣く子も黙る名曲・第23番のイ長調の協奏曲に挟まれた時期に作曲されている。
その二つの名曲と聴き比べたら、一耳で(こんな言葉あったかどうか分からんが)あれ、モーツァルトどうしちゃったの?と言いたいくらい、なんとなく曲はこびがもたもたしていて、あの天才にして苦労がなんとなく感じられるのだ。
夢の中で、よく前に歩いているのに足が動かずあれあれみたいな感じで進まないときがある。そのような感じに似ていなくもない。
さきの21番の眩しい美しさ、あとの23番の軽やかさみずみずしさとは表裏というか、派手な二曲にはさまれた下積みの苦労みたいなのも感じる。
ちょっと行き詰まって悩んでるな〜という感じがする。
たとえば、第一楽章の中盤で展開部があり、そこで長いピアノのパッセージがあるが、それなんかあの第23番の第一テーマを受ける同じく長いピアノのパッセージと瓜二つのメロディだ。
しかしあきらかに流れが悪く、うまくいってない。
それはそれで美しくありどこか派手で艶やかな23番の美女に隠れた地味なよく似た姉がいたみたいな。
顔の作りはよく似てるのに、ちょっとした目尻の形が美女と並みの顔を分けてしまう。そんなわずかな違いがあり、たしかにその二つの曲が血の繋がりがあるな〜とわかる、そんな感じといえようか…
そして、あざやかな均整美と天馬が駈けるとも悲しみが疾走するともいわれるモーツァルトおはこの素早い曲運びには感じられない、重たさ、憂愁とも呼べる停滞がある。
しかしだ。そこが問題だとはたと耳に感じたことがある〜
モーツァルト亡きあと、全世界をその興奮のるつぼと化させた、九つの交響曲の産みの親ベートーベンの曲調となんと似ているだろうか?
22番の第二楽章のテーマなんて、ベートーベンがパクってエロイカの第二楽章にしたといっても過言ではない。
またこの第22番とくしくもカップリングされている25番の協奏曲の第一楽章を聴いてみよ。
まさにあのベートーベンの運命の第一楽章の誰でも知ってるあのテーマ、ダダダダーンの赤ちゃんみたいな〜かわいいタタタターンっていうテーマが聴こえるよ!
これは驚きである〜
しかしこの25番のコンツェルトも「ちょっとモーツァルト風邪気味?インフルエンザ?」って訊きたくなるような、どっちかというと冴えないもたもたしたメロディを悩んで連ねていると思わせる〜
いろんなものを詰め込みすぎて、どれがメインディッシュかわからないような〜
名曲はモーツァルトの場合非常に単純でもっと簡単なメロディが多い。22番と25番はあきらかにごちゃごちゃしている。
ただこれが、あの珠玉の協奏曲第23番や第26番、第27番の習作と思えば、そうかと納得できる。天才も名曲ばかりは作れないのだ。
そしてどちらかというとこうした天才にとっては駄作っぽい作品に後年のベートーベンを彷彿とさせる新しい技法、苦悩、曲相が潜んでいるとは。
しかも先人の交響曲でなく協奏曲に、(おそらくベートーベンは「ドキィッ」としてるにちがいないが)それと感じられる種が潜んでいるとは…なんと創造の世界とは摩訶不思議である。
常に「失敗は成功の源」である証明のようだ…。
そしておそらくだが意図的にこれら二つの隠されたモーツァルトのナンバーを並べてレコーディングしてくれたピアノの巨匠ルドルフ・ゼルキンとロンドンフィルを指揮するクラウディオ・アバドには称賛の拍手を何年にもわたって私は惜しまない。
彼らがベートーベンの萌芽をモーツァルトの隠れたナンバーに見つけなければ、私も気付くはずはないのだ。
演奏とはひいてはそういう独創的といえる解釈論なのだから。
またこのCDに出会えた奇跡にも感謝したい。
独りよがりでないことを祈りつつ。