3日目 11月3日 Speak Easy ガケ書房 学生の好きそうなものとは〜

この間テレビに紹介されたSpeak Easy にOさんに誘われ出向く。さぞや客が列をなして…とはさすがに思わなかったが、祝日なので家族客が多かったが、別にいつもと同じような雰囲気であった。
店を出るときカーボーイ風人形がドアの横にありドキッとした。いつもなぜかびっくりしてしまう。
この人形は店の前に掛けられた星条旗とともにこの店のトレードマークで、数年前まで店の外に上半身が飛び出ていた。
このあと行った北白川別当町のガケ書房も、壁から飛び出した車のボンネットと運転席で通るものの視線を惹き付けざるを得ない。
外からは本屋とはまったくわからないが、Speak Easyと意外な共通点がある。
昔テレビで、事故で横丁の路地に突っ込んだフォルクスワーゲンをそのまま塗装し直して残し、店の目印にしていたたこ焼きやさんを見たことがあるが、客の記憶に強烈にインパクトを残す、こうした手法は、ご法度すれすれな商売の奥の手かもしれない。
ガケ書房は久しぶりに行ったが、相変わらずタイムマシンに乗ってサブカルチャーの起源60年代だけでなく、70年代、80年代、さらに遡り大正ロマンの時代をも体感できる。
これはおそらく本および作家の力がそうさせるのであろうが、店の雰囲気やディスプレーが、その本の力を引き出すことに集中している感じを受けた。
そのためアイテム数は少ない。
しかしなぜか本好きの人間が他の書店ではまず出会えない本、CD、漫画に出会うことができる。またその気にさせてくれる。
大型書店がもれなく本を並べ、見つからない本をなくそうとするのとは反対の行き方である。
また古本もおいている。京都の個性的古書店何店かが棚を借り、古書を普段から並べているのだが、11/15まで500円均一の古書祭りをやっていて、平積みもされていた。
つられてわたしも古書を買ってしまった。
古書のよさは前に読んでいた人が落書きしたりしているところだ。ブックオフの古書はたんなる安売りであって(私も恩恵を受けることはあるが)、本の本質的な価値を下げるばかりである。そういうマーケットに投げ込まれると、古書の価値は果てしなく下落していく。
それはその本を読んでいた我々の精神価値も知らずに下落しているのだが…
この日ガケで見つけた本にこんなことが書いてあった。今を遡ること、約80年前の文章である〜。
「…大量生産を特色とする二十世紀は、恐ろしく書籍とその作者との品質を低下せしめた。この濁れる書籍の氾濫時代に棲息して、滔々たる粗造本の汚濁の中に佇まなければらぬのは、我々の不幸である。現代は素朴にして華麗なる写字本の時代や、古拙愛すべき「貧しき者の聖書」の木版本時代とは遥かに距ってしまった。…
では、我々はどうするのか。読書人の逃げ道は所謂愛書家になることより外にはないかのように見える。愛書家とは言うまでもなくその多くは新刊書などには目もくれず、頭からこれを軽蔑して、ひたすら古書と稀覯書(きこうしょ)とにその愛を傾倒している人たちである。
(しかし)…もし新刊書のうちに後に古典と讃えられるものの存し得ることが可能であるならば、我々がそれを味到し鑑賞せずに看過してしまうのは、我々にとって堪えがたき一つの喪失であらねばならぬ。
…かくて未練と彷徨、嗅ぎ出しと模索、期待と失望が、結局、多くの読書人の運命でなくてはならぬ。」
林達夫「書籍の周囲」〜『林達夫集/編集 解説 山口昌男筑摩書房近代日本思想体系』)
仰々しく時代がかっているが、これは本屋さんだけでなく、出版に関わる人は、真剣であればなお頭を悩ませる普遍的問題かという気がする。
しかし、ガケ書房や同じく個性派書店として名をとどろかす恵文社一乗寺店などの本屋さんは、その問いに彼らなりに答えをだそうと懸命になっていて、その情熱がファンを呼び口コミで人気が高まっている気がする。
もとより支持しているのは、その独特な若い感性、いつの時代も京都に太古の昔から集まる、古くは書生、現代は「腐れ」と冠せられる学生である。
一見、昼間見かける今時の学生となかなかつながらないガケ書房のタイムカプセルに乗ってきたような古くて新しい本たち(もちろん新しい本もおおいが)、しかしそれが地下でつながっているようなのは、前述の林達夫の復古(ルネッサンス)の精神がまだ少なくとも京都にいや日本に生きながらえている証拠なのかという気もする。

○参考記事:「ガケ書房(と恵文社と三月書房)」→http://kyototto.com/archives/72
○落書きがある本のページ↓