ブラームス ピアノ協奏曲第2番とサリンジャー「フラニーとゾーイ」

 先日偶然レコード屋さんで輸入版のCDだったが、ブラームスのピアノ協奏曲第2番をカラヤン指揮のベルリンフィル、ピアノをゲザ・アンダが弾いているものをみつけた。
 これはドイツグラモフォンが十年ほど前にレコードから復刻した廉価版で、「開封前ですが一度販売されたものです」というコメントがついて中古版扱いになっていた。録音は、1968年でグリーグのピアノ協奏曲(こちらはラファエル・クーベリック指揮のベルリンフィル、ピアノは同じゲザ・アンダでなんと1964年の録音だ)
 買おうか迷いつつ(わたしはカラヤンの指揮はあまり好きでない)ジャケットを見ていると、Cellosolo(チェロのソロ):Ederhard Finke (輸入版だからドイツ語のまま)とあった。ベルリンフィルの首席チェロ奏者だろうか。
 それをみて、はじめて、そういえばこの曲の第三楽章にたしかチェロのソロパートがたくさんあって、そのテーマを思い出して、懐かしくなり思わず買ってしまった。(最近どうもそういう衝動買いが多い)
 この曲は、わたしがはじめて好きになったブラームスの曲であり、まともにクラシックを聴くようになって、よく聴いた曲の中のひとつだ。
 そして、ちょうどその曲を始めて聴いていた頃、サリンジャーの小説、『キャッチャー』以外の短編やその他の作品をはじめて読んでいた。(普通、高校生で読むべきものを、大学ではじめて読んだ感じだった)
 今から数えること20うん年前の話で、3回生になる前の冬休みだったように思う。短編や「フラニーとゾーイ」の文庫を試験期間中にいつもカバンにいれて持ち歩き、学食や喫茶店で読みまくるほど、熱中していた。

 いま読んでもそのときの熱に浮かされ加減が妙に思い出され、活字を冷静には読むことはできない。おそらく、そういう類の本が誰しも一冊か、二冊くらいあるのではないだろうか。
 なぜあんなにあの小説に熱中したかは、たぶんサリンジャー好きの人にはわかるかもしれない。一種の「はしか」みたいなものがあるのだろう。

 記憶だけで書いているが、「フラニーとゾーイ」にはしかしそれまであまり小説の中では出会ったことのなかった「カレッジ生活」が見事に描かれていた。それは、わたしにとっては、身近なものごと、特にデティールが小説の中で描かれていた感覚があり、それまで読んだ小説では得られない感動を味わった。その頃、もう村上春樹の文庫本が出始めてはいたが、わたしはあまり気が進まず、『風の歌を聴け』以外は読んでなかった。
 たとえば『フラニーとゾーイ』のなかの一編「フラニー」の冒頭に、
「その日は、トップコート日和だった(This is "Top coat weather",)」
とあったように思うが、かつての日本(1980年代初頭)の小説にはまだそんなアメリカ消費文明的な文章はあまりなかったように思う。
 それと、アメリカの50年代と日本の80年代は微妙に交差していたように思う。バブリーな感じがサリンジャーの小説の背景にはあると思う。
 そしてこの「フラニーとゾーイ」のなかでは手紙が重要なツールになったり、電話でのやりとりがえんえんと続いたりする。このへんも、それまで読んでいた小説にはないスタイルだった。
 今から思えば、昔の作家で庄司薫という方はそのスタイルをかなり取り入れていたが、当時は目新しかった手法の元はサリンジャーであったことがわかった。そして、庄司薫も、私はよく読んでいたが、その小説がどことなく現実離れしている反面、サリンジャーの作品にはものすごくリアリティを感じた。
 だからというわけではないが、サリンジャーのその作品のなかで主人公のゾーイが、バスタブの中で、兄から来た手紙を読むシーンがあるのだが、当時わたしはそれを真似て、この文庫本を風呂のなかでよく読んだ。

「〜バスタブの中のお湯に浸からないように湯の上に出した膝の上にその手紙をのせていた〜」みたいな文章をよく覚えている。
 その文庫は野崎孝さん訳の古本屋で百円で買ったカバーの表紙のない裸の本であった。買ったときはそのタイトルから勝手にハーレクイン並みの恋愛小説か推理小説と思い、読まずにしばらく放っていたのを思い出す。

 どういうきっかけで読んだのだろう。まさか、有名な『キャッチャー(当時は『ライ麦畑で捕まえて』というタイトルで流通していた)』の作者の小説だとは思わなかったが、同名の作家なのか?と思ったような気がする。
 その本はお湯でふやけよれよれになっているが、いまも家のどこかにある。
 この作品でサリンジャーは手の込んだやり方で、小説の書き手をバディ・グラースという架空の大学講師件職業?作家に想定していた。
 そして彼バディの書いたものをそのまま作品とする一連のグラースものシーモアものというか〜連作サーガ小説〜をこのほかにも書いていて、短編と『キャッチャー』以外の彼の作品はほぼそれである。
 サリンジャーの短編(普通に読めるのは『ナイン・ストーリーズ』の中の九つの作品しかないが)にもいくつか少なくない数にその連作小説の登場人物がでてくる。村上春樹の小説にも同じ登場人物(名前が微妙に変わったりしている)が長編と短編に出てきたりしているが、それと似ている。
 当時の自分のことは、まともにはなかなか語れない。誰でも若い頃のことは顔を伏せたくなるもの、、決して戻りたくはないが、なにかの拍子にぽんと出てくる。
 そのたびにもう傷口の上は分厚い皮が被っていて、見た目は分からないがさわるとまだかすかに痛いような感触を楽しむようになる。そして妙に懐かしい。
 話がそれてしまったが、冒頭のブラームスの曲は、大学入学のときからよく出入りしていた友達の下宿で見つけ、何本か譲ってもらったカセットテープのなかの一つだった。
 その曲が気に入り、その頃、ほぼ毎日聴いていた。
 彼は音大に十分合格できたのに、マルクスにはまって哲学科に鞍替えし、すこし時代遅れになりつつあった学生運動に熱中していたフルート吹きだった。彼の下宿(大屋さんがいるがその頃はなんと部屋に鍵がなかった!)でよくレコード(まだCDはなかった)を聴かされた。
 わたしはクラシックはほぼはじめてであったのであまりよくはわからなかった。彼は、ブラームスの『バイオリン協奏曲』をよくかけていたが、その頃はさっぱりよく思えなかった。(いまは、世界一の名曲だと思うが)
 しかし、このピアノ協奏曲に関しては、さっき触れた第三楽章のチェロのテーマが信じられないほど美しく、またピアノが水の上の光のようにキラキラするような音を奏でるのが、非常によく、気に入っていた。
 当時入っていたサークルで彼とは知り合ったが、ちょうどその冬くらいから、その活動が激化したのか、彼は大学に姿を見せなくなった。そして、このテープを譲ってもらったあたりから、下宿にもいず、そのうちにその下宿も、ワンルームマンションの隆盛のあおりか、部屋をとじはじめていた。もともと、グラインダーや溶接工場の片隅にあった2階建ての建物だったが、工場だけになっていた。
 わたしもちょうと、自身のいろいろな問題をなんとなく故意に大きくし、自己に沈下していった…。
 いまでもこの曲を聴くと、セットでその『フラニーとゾーイ』にでてくる、トップコートを着てフラニーを駅で待つカレッジの男子学生の姿を思う。そして、大学の近くの冬の道を、タバコをくわえ(その頃は吸っていた)歩きながら、この音楽を頭のなかのオーケストラが演奏するのを聴きつつ、みていた冬の木立を思い出す。
 すべてが春を待ちながら、そのためにくぐり抜ける試練としてやっと耐えれるように思われる、そして木々の根は土の中で養分を吸い上げ来るべき春の準備をひとしれず行っている冬だった。わたしにとっても。
 この間加茂川で撮った。ブラームスのようだ。