試験とオリンピック

私のような者が書くべきではないかもしれないが、本当に上村愛子は残念であった。
勝利の女神はどこまで意地悪なのか。
今日の朝日新聞(夕刊)で、西村欣也という人が、上村さんのことを書かれていた。
彼女は勝者ではないかと。
長野から数え4回とも入賞、しかも順位が7位→6位→5位そして今回の4位と、本当に一つづつ上ってきたらしい。
こうなると、次回は晴れてメダルということになるが、果たしてスポーツ選手だ、年齢や体力に限界があろう。
「今はゆっくり休みたい」というのが、ご本人の弁らしい。
4年×3回=12年、最初のオリンピックの前を足すと約15年はがんばってきたのだから、当然だろう。
それまで何ほどの関心もなく、こうしてテレビでにわかに晴れ舞台での無念をかいま見た、通りすがりの私のようなものでも、残念なのに、本人がどれほどメダルを欲しかったかと思うと、勝利の女神
取らしてやってもよかったんじゃないの、、。
と悪態をつきたくなる。

これに似たことは、比べるべくもないが、私にもあった。
ちょうど同じ日に、検定試験(ビジネス会計試験という商工会議所がやっている試験)を受験し、合格、不合格はともかく、最後の問題で手痛いミス、普段なら難なく解答できていた問題を、時間にあせらされできなかった、ということがあった。
わたしは、実は資格試験対策の業界で働いていたのだが、これに似た事態に陥る、ないしは陥っていただろう人たちを数え切れずに見てきたし、結局、こういった資格試験も、準備期間が長ければ長いほど、本番での強さみたいなものが、勝負を決してしまう。
だから、受験生は、感覚的には、オリンピックのアスリートと本質的に同じ苦難に直面せざるを得ない。
特に、前職で長年関わっていた司法試験となると、合格はオリンピックほどではないにせよ、入賞ではなく、メダルをねらわないと受からない、ような感覚があった。もちろん、結果としては入賞すれば、余裕で合格できる。
しかし、おそらくオリンピックでもそうだろうが、メダルを狙わないと入賞は決して出来ないだろう。
今日、スピードスケートの初出場の選手が、6位にめでたくも入賞したのに、悔しそうに泣いていた。たぶんメダルを狙っていたのだ。その結果の見事な6位なのだろう。
そういう一流の闘いが、司法試験級の資格試験には昔はあった。
これは、今のロースクール制度が出来る前の「旧司法試験」のことである。
模擬試験や答練といった、予備校で本番の予行演習を1年くらい延々と準備するのだが、そこで成績のいい人が受かるとは限らないといった事例を山ほど見てきた。
なんなく本番で力を発揮できる人となかなか発揮できにくい人がいる。
わたしなんかは、残念ながら後者のほうだ。
気が弱いから、常に、準備を完璧にしようとして、努力は並大抵でなくしがちだ。
しかし、どうも肝心なとき的をはずしてしまう。そして、試験の本番これは、「本試験」とわれわれは呼んでいたが、常に意外な展開を毎年見せる。
どこかに「クラップ(わな)」が仕掛けてあって、それはそれ以前の試験には決してない種類のものなのである。
そこで、準備を完璧にしがちな人(結果として完璧ではないわけだが、、、)ほど、そのわなに引っかかってしまい、実力が出せなくなる。
そういう人ほど、一問につまづくと、あとに引きずるからだ。
だから、かえってダメモトで受験したペーペーの初心者受験生なんかは、間違って当然だから、難問には悩まず、素直に簡単な問題の得点を稼ぎ、さらには、難問でも「わな」を意識せず、練習ではわからなかったことが本番で「そうか〜」と判ったりして、本番を練習台にしている。
そして、結果合格、なんてわりとよくある話だった。
しかし、これは試験やオリンピックだけでは、たぶんあるまい。

なぜ、まじめな人ほど、そういう勝利の女神の意地悪さを呪うことになってしまうのか。
これだと、努力してもしなくても、結果が同じだったら努力しない方がいいんじゃないの、といわれそうだ。
結果をあせり、緊張するのだろうか。それもあるだろう。
しかし、その紙一枚の差を分けるのは、「ハングリー精神」の差ではないかと最近思い出した。
これは、おそらく「生まれつき」であり、努力ではどうしようもない。

どうも、上村選手はどちらかというと本番に弱い選手、ではないだろうか。
これが、たとえば同じ実力で、亀田や朝青龍のような性格なら、ゴールドのメダルを手にしていたのではと思わなくもない。
ちょっと気が弱いみたいな、ところがあるかもしれない。
朝日の夕刊の西村さんの記事には、上村選手は子供の頃、心臓の病気でその土地療養のため、家族でペンション経営をやりに、長野に転居した。そこで、スキーと出会った。
そして、スキーが上手いせいで、学校でいじめに合い、母親の勧めでアメリカに留学し、モーグルの里谷をみて、アルペンからモーグルに転向したとのことだ。
その里谷が、引退を思いとどまったのは上村のひたむきさだったらしい。

だから、西村さんの記事のように、上村選手は勝ったのかもしれない。
一発でメダルを取るより、ひとつづつ順位を上げていくことの方が、難しいのではないか。
なぜなら、そういう自己の性格そのものを変革しないと、その「勝負強さ」を身につけられないと思うからだ。
だからこそ、上村選手のような人は努力することをやめない。
そして、つまり、今回のメダルがあと一歩だったのも、勝利の女神の、「もう少し努力せよ」との采配なのかもしれぬ。
一度に成果を与えると、つい努力しなくなってしまう、人間のための。
そうはわかっていても、残酷に違いない。泣けてくる。
テレビでも泣いていたが、3日間くらいは思い存分泣いて欲しい。
泣いて、女神の厳しさに思う存分反抗して欲しい。
しかし、そのあとたぶん、自分が「どこか」足りなかったと思うだろう。
こんなこと書くのも残酷だが、それは事実なのだから。

上村選手が次の五輪に挑戦するかどうかはわからない。
しかし、彼女の今後に興味がわく。
おそらく、この4位は、意味のある4位になるのではないか。
仮に、選手として五輪に出なくとも、人生の金メダルを取るのではないか。

何度も今日もモーグルの決勝を写していたが、それをみていると、考える。
やりたいことと目標があり、その目標のためひたむきに努力すること、このことを教えてもらった気がする。
女神は意地悪だが、あきらめない人間には、微笑んでくれる気がする。
そして、やりたいことはやるべきなのだ。
それを上村選手は教えてくれた。

わたしも、やりたいことをやらねばならない。

今日撮った比叡山。雨降りで、雲間からかすかに山頂が見える。