植村花菜「トイレの神様」とテネシー・ワルツの関係

ずいぶん長く更新しなかった間に5月になり、ゴールデン・ウイークも前半が終わった。
最近アルバイトが連日あり、今日も仕事であった。というより今から夜勤なのだが。
夜テレビで歌番組をやっているのを母が見ていたので、一緒に見ていると郷ひろみがメドレーを歌っていた。
何年ぶりかで見たが、そのあとも歌謡曲全盛期のわたしが小学校高学年だった頃ヒットしていた歌を、当時を彷彿とさせる衣装で、なんと本人が歌いだすのだった。
あべ静江「みずいろの手紙」(笑)
金井克子「他人の関係」(爆)
この金井克子の歌のイントロのとき、かなり当時みんなが驚きつつ真似した振り付けがあった。
これは同時期にこれも大ヒットした夏木マリの「絹の靴下」での挑発的で悩殺される振り付けとともに、一世を風靡したのだった。
先日亡くなったスーちゃんがいたキャンデーズが大人気だったのも、たしかそのころだったように思う。
わたしはその頃からラジオでディスクジョッキーを聞き始めたが、それらでよくかかっていたのがキャンディーズだった。
当時はティーンエィジャーはFMよりAMを聴いていた。たしか、ある春部屋のふとんを干しながら、キャンディーズの「微笑み返し」の「畳の色がそこだけ若いわ〜」という歌詞がやけにぴったりだったと思ったのをいまだに覚えている。
やがてキャンディーズはわたしが小六であった1976年解散*1する。
たしかラジオで聴き知ったはじめての洋楽、オリビアニュートンジョンの「ジョリーン」を友達と歌いまくっていた年だ*2

そして、明けて1977年、学生服を着て中学へ通い始めたわたしたちを見舞った歌謡曲といえば…
そう、偉大な阿久悠作詞のあのピンクレディのペッパー警部だった。*3
わたしのクラスメイトにまんがの名手がいて、彼が描くペッパー警部の歌詞を元にしたまんがが、たしかまだわたしの国語の教科書の端っこに残っているはずだ。
ピンクレディのその後の活躍は書くまでもないが、あの土肝を抜くコスチュームと振り付けの前夜には、あの夏木マリ金井克子の火花を散らす死闘と、おそらくはじめて球場で解散コンサートなるものをしたキャンディーズがあったことは、記憶しておいていいだろう。*4
植村花菜とまったく関係ない話をしてしまいました。(タイトルはそのまま残しますが、あきらかにタイトルミスマッチです)
続きは明日。

*1:わたしの友人に指摘を受け、調べたところ、キャンディーズが後楽園スタジアムで解散コンサートをしたのは、1978年でした。わたしが、中学3年の頃でした。

*2:ちなみにオリビアニュートンジョンの「ジョリーン」(これはなんと日本でのみシングル盤が発売され、ヒットしたとか)がヒットしたのは、1976年でこれだけ変ですが記憶と合っています。

*3:このあたりまったく覚え違いしていました。わたしが中学に入学したのは1976年です。ちなみにピンクレディーペッパー警部でデビューしたのも1976年で、この同時性はあっていました。

*4:このくだり、ウィキペディアで調べると、キャンディーズのスーとピンクレディのケイは仲がよかったらしい。それと、彼女たちの客層は、キャンディーズが、若者層、ピンクレディが小中学生を中心に人気がでており、ライバルではなかったとのコメントがあった。たしかに、キャンディーズのコアなファン層は、わたしたちより5〜10歳年上の大学生に近い若者だった。しかし、ピンクレディが、激しい振り付けの前世代の大人の色気をフューチャーしていた歌謡曲を、すごい勢いで駆逐していったのは、事実で、その勢いがキャンディーズの人気絶頂期での解散を促したのも事実ではないかと思う。