震災と「揺らぎ」と美〜ブッダ・カフェ第5回に参加して

 東日本大震災について、月に一度、京都のお寺に集まり語る試み、「ブッダ・カフェ」も25日に第5回を数え、この日は「震災ボランティアの現在」というテーマで、話し合いが持たれた。

 詩人のKさんご夫妻が、主催者の扉野さんの招きで参加され、岩手や福島にボランティアに行かれた体験を少し語ってくださった。

 その中で、印象的だったのは、岩手で実施されたという「野染め」の話だった。

 これは、京都で斉藤洋さんという染色家の方が、被災地の主に障害者の施設を対象に、布と染色材料を持って、現地に行かれ、「野染め」という染色技法のワークショップのようなものを実施され、それに付き添って一緒に東北に行かれたのだった。

 「野染め」とは、白い布を野外で横わたしに干すような形で吊り下げ、そこに色んな色をそこにいる人が変わりばんこにつけていくという手法の染め方らしい。

 ひとりひとりが違う色を重ねていくと、思ってもいない不思議な色合いがでて、素晴らしい染物が出来上がるという。
 
 Kさんご夫妻は、その体験について、人間にとって、「きれいなもの」を見ることが、いかに生活の中で重要かについて、実感的に感じられたと、語られた。

 また、被災地で、現地の方々に贈ったプレゼントで、お針箱がすごく喜ばれた、といった話も印象的だった。

 Kさんは、神戸の地震の際、被災された経験があるとのこと、手仕事をすることが、何より人間の立ちなおりというか、日常を取り戻すために、役立つことを実感された結果のものだったろうが、それほど喜ばれるとは、思っておられなかったらしく、特にこれからの季節に非常に大切な道具であったことに、あらためて発見があったとのことだった。

 さて、話の中で、(だんだん震災のボランティアでのことなどから話が逸れていってしまったのだが)人間がなぜ美しいものに惹かれるか、というテーマになった。

 参加者のお一人がこういう話をした。

 たとえば、オーストラリアに生息する鳥で、つがいになるに際し、きれいな花を摘んできたオスの求婚を受け入れる、というものがあり、どうやら動物や虫にも、美しいものを好み、それに惹かれる感覚を持っている。それは、生命の原理であり、種の保存上、命をはぐくむために美を求める性質が、生物には備わっているので、人間が美を好むのも、おそらく生物として埋め込まれた「種の保存」上の感覚であろう、そういう話だった。花に蜂や蝶が群がるのも、花の生存上花粉の受粉のために必要なことで、生物の戦略として、花はきれいに見せようとしているのではないか。

 おそらく、それは正しいであろう。科学上、証明は困難かもしれないが、大まかにはそういう原理が生物にはあるに違いない。だから、人間もきれいなものに惹かれるのだ。

 だから、時々、人間の創作で、グロテスクなものやわざと形を壊したようなものを「美しい」としてアートにしているものがあったり、変わった形の石やサボテンなどを愛でることがあるが、それはやはりひねくれた異常な神経なのではないか。

 そういう話だった。 


 この話に、しかし反対というか、別の視点から意見がでた。

 「グロテスクなものや、醜いものに「美」を見出すのは、「ひねくれた」神経だからではなく、人が持っている生物としての「弱さ」が求めてしまうのではないか。そして、きれいなものに惹かれることと、一見醜いもの・グロテスクなものに魅かれることとの間の「揺れ」のなかで、美があるのではないか。」

 扉野さんの意見だった。


 彼は、続けて、人間の弱さということについて、生物学上の人間の赤ちゃんの弱さをあげた。

 馬やしかは、生まれてすぐ二本足で立つことを定められている。が、人間の赤ん坊は、生後すぐに歩くことはできない。その生まれてから、歩くまでのほぼ1年に近い期間、人間の赤ん坊は、自力で立ち上がることができず、親に守られて過ごすのである。これが、人の生物的な基本性質である。

 ここで、参加者の西村さんより、人間の赤ん坊は、動物と比べたらすべて「未熟児」として生まれてくる、という見解を述べられた。

 つまり、人間は「脳」を大きくする方向で進化したため、生まれるときに頭がお母さんからギリギリ出るくらいまでしか大きくない段階で出産されるほかなく、動物のようにすぐ歩ける状態まで、母親の胎内にいられないというのだ。

 そのため、赤ちゃんの頭蓋骨は、生まれる直前まで縮むような仕組みになっており、反面お母さんの骨盤は、出産のとき可能な限り広がるような作りになっているという。

 その出生の成り立ち、生物学的な「弱さ」「遅さ」が、人間独特の「美」というものに対する感覚、「弱さ」というものを機軸とする美意識の「揺れ」を決定ずけているのではないか、という意見だった。

 この「揺れ」「揺らぎ」という話は、このあと、K夫人が話された、東北の「野染め」のワークショップで、ある障害者の方の反応、人と話さず、なんの表情もなく、日々黙々と自分の周りの情景を見るだけのことしかできない方が、野染めの布の色を見て、その眼に「揺らぎ」があらわれたのを見た、という話に呼応していたが、そのことが、その場では気付かず、話はまた別のテーマに移っていった・・・。

 
 翌日、日曜日の新聞の書評欄にこんな記事がるのを発見した。
 

ヒトはサルの幼形成熟ネオテニー)として進化した。そんな魅力的な仮説がある。

 新聞を後で捜すのは、困難なことがわたしには多いので、全文を引用する。

・・・子供時代が延長され、子供の特徴・特性を残したままゆっくり成長する。すると好奇心に満ち、探索し、道草を食う。攻撃よりも接近、争いよりも遊び、疑いより信じることが優先され、合理より物語に惹かれる。つまり、学び、習熟し、想像力の射程が延びる。これがヒトをヒトたらしめたのだと。
 『ゲド戦記』で世界を魅了し、愉快な『空飛び猫』(邦訳は村上春樹)を生み出したル=グウィンは実作者の立場から、ファンタジーの作用もまたそこにあると言う。
  ファンタジーとは、子供だましでも夢物語でもなく、まさに子供であるときにしか感得できない力、子供だけに見える世界を与えつづけることだと。それは、レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」と名づけたもの、あるいは児童文学者の石井桃子が言った「大人になったあなたを支え続けるもの」と同じでもある。
  なぜ、ファンタジーでは重力が無化され、動物たちが人と会話するのか。それはデカルト的二元論、キリスト教排他主義、行動主義理論などがこぞって決め付けてきた大人の理屈、すなわち機械論的自然観から本来的にまったく自由であるからだ。この本を読んで、私はかつて昆虫少年だったのに、なぜファーブルではなく、まずドリトル先生の物語に惹かれたのかという疑問が解けたような気がした。
  ファンタジーは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を教える。それ以上に美醜の基準、フェアネスのありかを示す。物語のかたちをとって。なぜ生命操作が美しくなく、どうして巨大技術が醜いのかを教えてくれるからである。
  あれだけの作品群を書きつつ、こんなに緻密な評論をもものする。ル=グウィンル=グウィンたらしめる理由がここにある。
(2011年9月25日 朝日新聞 読書欄「いまファンタジーにできること/アーシュラ・K・ル=グウィン<著>」書評 福島伸一) 

(追記)この記事に関連し、茂木健一郎『脳と仮想』のレビューを別ブログに掲載しました。もしよろしければ、お読みください。茂木健一郎「脳と仮想」 (新潮文庫) - うたた寝読書日記