いま再び、美しかれ5月〜追悼・吉田秀和さん

5月が終わって5日過ぎたが、社会的にも、またプライベートでも、5月の後半からこの6月にかけて、かなり重大な出来事がめくるめく起こっている、と感じているのは、わたしだけではないだろう。
昨日、株価が異常な底値を記録した。なんでもバブル崩壊時の株価を下回ったとか。ヨーロッパ経済の危険度も噂され、いま原油価格がそのせいで下落している、と職場のお客さん(タクシー運転手)からうかがった。(パソコンさえなく、かなり情報がないようで人の運んでくる貴重な情報がたくさんある職場だ。)
とくに一昨日、昨年末の平田容疑者の晴天の霹靂的自首(最初に申し出を受けた警官は本気にせず追い返し、あとで失態と報じられた)につづき、オウムの指名手配犯菊地直子が逮捕された。先日来、バスのなかに貼られた指名手配告知の貼り紙の写真が一か所紙を貼られ隠されていた、いたのを見たが、平田の自首から早々の逮捕で、あのポスターも三人のうち二人の写真が隠されることになろう。
思えばあれから17年、地下鉄サリン事件の被害者のご家族の方々は昨年17回忌を弔われたはずだ。節目の年末に平田の自首があったのだ、これを麻原他の死刑囚である教団幹部の死刑執行の時間稼ぎとみる穿った見方もマスコミにはある。判断は難しいが、節目という言い方は妙で、なんらかの時間の魔術というか、歴史の不可思議さを少し感じなくはない。たぶん残された実行犯、高橋容疑者の逮捕も近いのではないか。
そして大飯原発再稼働に対する広域行政連合の腰砕け会見、それに対する昨日の福井県知事の何となく勝利感を感じる会見があった。
また昨日、政府は最終ステージと言うべき起死回生の内閣改造で、野田さんは執念の消費税増税に突進して、おまけに朝ナマでおなじみの森本さんのまさかの防衛大臣大抜擢があった。
かとおもえば、株価の下落、いつヨーロッパの経済が発火し飛び火するかわからないとまで言われているただなか、テレビでは高島昌伸の離婚裁判を面白げに取り上げている。
別に馬鹿にしているわけではない。人間の関心は似たり寄ったりだ。芸能人は格好の話題を提供してくれる、当人たちにとっては迷惑きわまりないだろうが、われわれのじつは鏡に過ぎない。男女間のトラブルは漱石以前から、すべて誰でも身に降りかかる永遠のテーマである。
そんなことを書くために携帯をいじくりはじめたわけではなかった。
先日吉田秀和氏がお亡くなりになった、その特集番組をETVが先週やってくれ、以前放映されたらしい吉田秀和のドキュメンタリー番組を放映してくれた。録画したのを一昨日、日曜の夜に見た。
『名曲のたのしみ』というFMのかなり前からやっている番組があり、わたしは時々だが、楽しんで聴いていた。その番組については前にこのブログでも書いたことがあった。
この放映された特集番組でそのラジオ番組の収録の場面が写っていて興味深かった。
吉田秀和さんは、自分で大きな真っ白の紙に自筆で手書きされた台本をスタジオで見ながら話されていたようだった。それはクリップかなにかで留められた手書きのメモであった。
ご自宅に次回分の放送に使うために書かれたものが残されていたそうだ。
前にも書いたが、音楽というものは聴き上手な人と一緒に聴くと、自分一人で聴くときにはわからない音を聴くことができる、これはわたしの体験上の確信である。
吉田秀和さんの『名曲のたのしみ』は、ラジオがそれを可能にするかけがえのないメディアであることを、なにより証明してくれた貴重な番組であった。
しかしそれはラジオだけではないことが、最近わかった。
ETVで、著名人やタレントが自分の人生に影響のあった歌をいくつか紹介する、それも二人が向かい合い対談形式でその曲を披露し合う番組をやっている。
そこで紹介され流されるビデオクリップが、普段われわれが目にし耳にするときより感動を誘うときがなぜかある。
それがなぜなのか、わたしは不思議だった。
いまは、わたしは、それはその人の耳を通って聴こえてくるからだ、と言える。
それは、おそらく「批評」という行為の起源にして本質でありその無限の可能性と限界を示唆するものである、といまは考えている。
吉田秀和全集は、残された歴史的な作品で、日本(クラシックだけでない)音楽史のかけがえのない記念碑であろう。
しかし吉田秀和さんの真価は、番組でいみじくも茂木健一郎氏が言っておられたが、「存在自体が日本の音楽界をささえているのが感じられた」ような、文字通り批評を生きられていた点であると思われる。
ご冥福をお祈りします。