「サリンとセシウム」芹沢俊介と「原子力も世界破壊への信仰〜大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ』書評」田中優子〜もうひとつの『1Q84』

村上春樹の『1Q84』は、現実の1984年を舞台にしている。地下鉄サリン事件の約10年前で、あの事件で明るみになったオウム真理教とその教祖麻原を思わせる人物が出てくる。
昨年末、平田容疑者が自首したが、ちょうどその前月の11月21日に最後の実行犯の死刑が確定し、オウム裁判は終結したはずだった。もちろん、裁判は結審したが、17年も逃走していた指名手配中の重要容疑者のまさかの自主、そして直近の逮捕劇とさらなる逃走の報道に、事件の亡霊をみるかのようだ。

昨年11月の裁判終結に際し、新聞紙上で芹沢俊介氏が「95年と11年類似、サリンからセシウムへ」というタイトルの論評を発表されている。(京都新聞2011年12月2日朝刊)
「…地下鉄サリン事件は、表面では無差別殺傷行為というかたちをとりながら、それを促していたのは、内なる自滅への意志、死への欲動であったという理解に導かれる。
そういってみたい理由はある。事件から3年後の1998年は、日本がそれ以降、毎年3万人を越える膨大な自殺者数を出し続けることになる最初の年である。オウム教団を自殺する宗教とみなしてよければ、サリン事件はこうした事態への不気味な序奏として位置づけられるかもしれないのである。」
たしか『1Q84』において麻原を思わせる教祖は、まったく現実とは違っているが、刺客としてやってきた主人公に向かい、自分をわざと死に追いやる方法を選びとる。
村上春樹は、あの事件直後に、事件の被害者の遺族と、加害者側のオウム心理教の実行犯ではないが教団の一員だった元新じゃ一人一人にインタビューするという、画期的なノンフィクションを書いた。『1Q84』には、そのインタビューからさらに深く、おそらくその経験をフィクションとして発酵させ、現実の事件とは異なるが本質的に真実としてつかまれた、地下活動的な宗教組織が重要な舞台として描かれている。

芹沢氏はこの記事で、95年に起こった阪神大震災とこの事件、昨年の東日本大震災原発事故は、「一緒に考えた方がいいのではないか」と書いている。
ただ「両者の違いは人災の質である。一方はサリンという用語に象徴される無差別大量殺りくの脅威、他方はセシウムという名に象徴される放射性物質がもたらしたいのちの絶滅の脅威である」として、こう結ばれていた。
「生と死は、いのちの存続が前提となって現れる問題である。
その点からすれば、サリン事件は色あせてみえるというわけでは決してないけれど、いかにも古典的なテーマであるということは確かだ。」

この「古典的」という言葉に、わたしは逆の意味を読み取る(おそらく芹沢氏とは逆の意味で)。
わたしは放射能の問題を「古典的」ではない問題、つまり「現代的」な問題、いやむしろ「未来的」な問題であるという、芹沢氏の問題提起に反対するわけではない。
しかし、近代文明の根幹を揺るがす問題という意味で、オウムが起こした事件は人間の(宗教的)精神の(自)死の問題を考えさせられるのと同じく、放射能の問題は、たしかに物質的ではあるが、これも人間の自殺行為的な問題として、「古典的」ともいえる人類の発生以来の問題に思えるのである。

これに関連し、2012年4月29日付け朝日新聞書評欄に、『夢よりも深い覚醒へ 3・11後の哲学』(大澤真幸著)の田中優子氏の記名記事があった。
原子力も世界破壊への信仰」というタイトル。
「著者は世界を破壊する否定の力への信仰がオウムであるとすると、原子力もまた、その破壊潜在力への信仰ではないか、と喝破する。『原爆を連想させる恐怖と、…戦後の数十年間で五〇にも上る原子炉を建設してきた日本人の欲望とは地続きである』と。
恐怖(巨大な力への畏怖)、破壊(恐怖する対象への衝動)、そしてそれらの根底に横たわる欲望を考えると、それは九・一一にも重なる。それらの中に、終わらせねばならないものが確かにある。」
「自殺衝動」を現代文明のオウムにみた芹沢氏は卓見であり、さらに原発事故にも「破壊潜在力の信仰」をみた(田中優子氏が語る)大澤氏の「喝破」には、つながりをみることができる。
そこには「信仰」という問題、おそらく「科学信仰」と言い換えてもいいだろう問題が潜んでいるように思われる。オウムの「狂信」を笑うことはできない。それは「科学盲信」のもう一方のひもの端でしかないように思われ、ともに自己破壊の衝動を潜めているのではないだろうか。