2012.5.25 ブッダ・カフェ第13回〜京都疎水は、昔公共プールだった

話したことは(順不同、発言者無記名)
・戦争直後の京都疎水での川遊び
無声映画カリガリ博士』と昔の京極映画館と戦争NEWS映画
・珍しく「体罰」しなかった基督教系学校のある先生の戦中と戦後での一貫した態度(周囲の先生は豹変)
・笹(の全滅と代替わりと背高キリンそうを見なくなったこと
・受験勉強は勉強なのか
岡本一平のマンガ『ただのひとへい(?)くん』(すでにうろ覚えだが、もしかしてこのネーミングはあの「只野仁」の原型か)
・日本人は、西洋(戦後はアメリカ)コンプレックスをバネに近代化したが、追いつかれるのは苦手
・日本人の変わり身の早さ(…『辺境性』(内田樹)のあらわれ、島国の風土、自然(笹枯れや背高麒麟草の絶滅とのアナロジー?)

この集まりはついに1年を越えた(ちょうど一回りをして二周目に入ったというところ)。
昨年の6月、震災の余波がなにかにつけ強く心を占めていたときから、思い出すとずっと、話す内容は毎回とりとめない。意外に、些細な昔の思い出や、はるか昔だが印象に残る本で読み聞きしたことが浮かび、口にすると、そこから参加者が共感ないし反対する見解を出したり。
こうした、なんとなく川に浮かんで流れてきた誰かのことばを拾い、それを自分のなかで流してみてこう思うと言ってみる、みたいな、時間を一緒に過ごすことで、地震原発事故のような、心を揺さぶる巨大なことに対する、自分の対し方のなにか手がかりをつかもうとしていた、のではと考える。
(今回、この会で配られた機関紙『ホウクス・ポウクス第1号』に、昨年6月のこのブッダ・カフェに参加されていた京都市立芸大の小山田さんが、宮城県女川でのボランティアのことを、現地で復興の音頭をとられている居酒屋のマスタが開発した「ソフトクリーム」を使った意外な場の活性化のノウハウを紹介した文章を掲載されていた。)
いつも会の最後に、お堂に移動し、主催者の扉野さんがお経をあげるのだが、それを聞いていると、何かやりきれないものに対する固い気持ちや日頃のしこりみたいなものが、話すことによっても解放されてきていたのだろうが、最終的に、日常からしばし離れ、不思議な感じで身体や気持ちが柔らかくなるのを感じる。

いま少し考えた、一年間の感想をいうと、あそこはどこだったんだろう、と帰ってきてからしばし思う、そんないまの時代を超越した時間に入っていた気がする場、だろうか。
お寺というのは、わたしには子供のときから意外と身近なものだった(小中と幼馴染みが近所のお寺の子供で、子供時代を通じ一貫した遊び場だった)のだが、その雰囲気も、影響しているだろう。

たしかに話していることは、昔のことが多い。
今回はなぜだったか、たしか、わたしが会場へ来るとき通った鴨川の土手に、鮎の放流中の看板を見かけた、という話から、昔、鴨川や京都疎水では魚がよく採れた、という話からだったはずだが、その疎水の水辺に、夏にはものすごくたくさんの子供が水着姿で泳ぎに来ていた、という昔話を聞いた。
それは、京都の現在70歳台くらいの方々の共通した思いでらしいことがわかった。つまりいまから約60年くらい前、1940〜50年代の話である。

わたしは、1970年代に子供時代を過ごしたが、川泳ぎはもはやしなかったし、川も汚くなりできなかった。30年の違いがすでに疎水を、単なる水路にしてしまったのだ。いまは道路のしたに潜っていて、その水路さえ(見え)なくなってしまった。
あと、その頃、疎水には溺死者がよくあがったそうである。和服を着た女性の溺死者は、ちゃんと両足をひもでくくり裾が乱れないようにして、飛び込んだらしいあとがみてとれた、そんな話も、日常に死がまだ身近にあった時代の、(いまでも本当はそうなのに実感がない)なにかもち重りのする思いでに思われる。
遊びのなかで体験することが、その人の一生を左右することもある。
その例として、わたしは前夜にたまたま読んだ鶴見俊輔氏の思い出がたりの本に書かれた映画『カリガリ博士』の話をした。
この映画は無声映画で、戦前の映画なのだが、鶴見先生の言うには、丸山真男埴谷雄高が子供の頃、この映画を別々に見ていたという。(『言い残しておくこと』作品社所収)
徳川夢声が弁士で、女性が殺人鬼に襲われるシーンがあり、そこで「キャー」とか叫んでいたらしいが、いまとなっては、そんな場面は映画だけじゃなく、テレビやネットゲームで氾濫している。
しかし、その頃はショッキングなシーンだったろう。そして鶴見先生は、そのシーンは実はナチスの出現を予告しているのだと語っていた。
そして丸山真男埴谷雄高は、子供の頃見たその映画の種を育て、二人別の立場から、ファシズムの研究をライフワークとするのである。

ところで戦前戦中の映画館はどんなものだったか?わたしは参加者のお一人に訊いてみたが、いまの美松劇場があるところ、あの辺りに映画館が集中していたらしい。ただ戦中は戦意高揚目的のニュース映画しか上映されていなかったとか。
扉野さんによれば、「昭和16年まではアメリカ映画も上映されてました」とのこと。
そこから、戦中の体罰教育の話になった。先生は生徒をじつによく殴るようになったが、キリスト教の学校だったので牧師さんだったが、わりと偉い先生で温厚な先生がいて、その方は一切生徒に暴力を振るわなかったという。
疎水の昔を話してくれ、戦中の体罰教育を語ってくださった方は、「わたしたちの世代は、大人をじっと観察する世代です」といわれていた。つまり、うわべだけでなく、その人の真価がでるのをじっと見ながら待つ、という意味だろう。
戦中に暴力を振るった先生が、戦後「神の愛」を説いた、そういう人を何人も見た結果として。
これは、たとえば橋下大阪市長なんかには有効な方法だと思う。

☆会場の徳正寺境内の沙羅双樹