ネット上に書くということについて

いまさらだが、こうやってブログを書いているが、そもそもなぜこのようなある意味晴れがましいというか自己満足というか、考えてみれば、いい気なものだと後ろ指指されるまではいかないが、見る人が見れば読んだり見るに堪えないものを、書き続けているのか、少し気になる。
よく昔から日記を書くのが好きだった。それは大学ノートに鉛筆で今日あったこととか、テレビでやっていたドラマの感想とか、最近のニュースについての感想なんかを書いていたわけであったが、むろん、それはみられては困る類いの、発表したりするつもりはまったくない、あくまで自分で考えをまとめたり、メモとして記録したりする目的で書いていたように思う。
その後、自分でも、人に見せてみたくなるようなものを書きたいという、欲求が出てきて、一時期小説めいたものを書こうとした時期もあるにはあったが、なかなか書けるものではないことが、わかっただけだった。
文章を書こうとする行為には自己顕示欲がどこかにあり、それは、日記をみられては恥ずかしいという思いと表裏一体な感情な気がする。
つまり矛盾する欲求が複雑に絡み合っていて、非常にやっかいだった、とわれながら、日記を書いていた頃の自分を思い出してしまう。

ところが。
このブログという形式のある種開放的な感覚は、この種の感情的なもつれをみごとなまでに解消し、書くものをして、まるで息を吐くような自然さで、日々のことや、ニュースに対するコメントを綴ったり、日頃の感慨をとうとうと述べてみたりということができるようになった。
ブログは、その点で、従来の書き言葉とは、本質的に重なる部分はもちろんあるのだが、微妙にそれとずれているところ、があるのではないだろうか。
このような、感想か感想でないかあいまいな書き方は、書き言葉(…活字になることを目的とする言葉という意味と、その全く反対の決して人目にさらしたくない秘密の書き物という意味の両者を指す言葉)、ではなかなか書けなかったところがある。そこには責任と思考の一貫性がもっと要求されるはずだからだ。

もっともブログのなかには、たとえば政治家や芸能人のように、そこでの発言に対して、はげしいバッシングが起こるケースもあり、発言にたえず「公式」という足かせが欠かせない立場のものもある。
わたしの言っているのは、むしろツィッターやフェイス・ブックのようなつぶやきを主としたサイトの性質を言おうとしているのかもしれない。
しかし一般的に、ブログをやっている人は、その種のつぶやきをブログ上でしている人もいるし、わたしもそのようにと言っていいような記事をブログに書く日もある。
要は、ネット上の文章というのが、従来の書き言葉と同じ公的なものとしてあると同時に、話し言葉的な、ある種無責任なだからこそ、公的なものにしばられないがゆえにフッと飛び出る真実さやダイレクトで自由な感慨を、もれる画期的なツールである点だ。
そこには、匿名サイトが極端な例だが、ある種無責任な、あとで修正もきくことを前提としての、実験的なというような自由さがある。
それこそよけいな手続きや媒体なしに、直接気軽に書き込め、いとも簡単に修正し削除できるという前提があるからだろう。
本来、その種の発言は、つまりプライベートなものであり、自分一人に向け、さっきも書いた紙ベースもデジタルでも発表 する意図のない日記にとどめたり、仲間内だけで回覧したり話したりすべきもので、ネット社会以前の時代であれば、そうしてきたはずである。
ところが、ブログが広まってから、この種のいわば「楽屋裏」の話が、一挙にネット上に公開されることになった。
おそらく、公的な話より楽屋裏のつぶやきや痛烈な批判の方が、断然面白いからだろう。

ある種の毒舌がキャラでそれが人気を呼んでいる有名人は、楽屋裏の話を自分が批判の矢面にたつ覚悟をもってできる器量のある才人で、こういう人は、その道のプロで、たとえばビートたけしさんなぞはその代表的スターだろう。
しかしブログの登場は、その種の毒舌を普通の人々にも可能にし、ネット上にはその種のプチ評論家がひしめきあう世界をうんだ。
そのなかには、もともとリアルなジャーナリズムの世界でも十二分に通用したであろうが、ある種の事情のため、ブログ上で文章を発表するにとどめていたところ、ある出版編集者がそれに目をとめ、ブログ記事を活字本にして出版したとたん、ブレークされた内田樹先生のような方もいる。

今年の正月に秋元康さんが、深夜テレビ番組で昨年一年でどんな番組が面白かったかを話す座談会に参加していた。
そこで、最近は昔なら楽屋裏で面白いね、といっていたが、企画会議で、はねられていたような企画がどんどん番組になっている、という発言をしていた。
これなんかは、楽屋裏の話をばんばんオープンにしているブログの力が、番組製作の現場にも侵食していることがうかがえる。
そして、なぜに、かようにブログ上で、いとも気軽に本来公にするとなれば、構えたり手直ししたりしているうちにつまらなくなってしまうアイデアを、活きのいいなまの状態で公表できるかというと、ネットという空間がバーチャルで、リアルな社会と接している濃い部分から、そことはかけ離れたリアル感のうすい部分までにいたる、かなり広大な範囲に及んでいて、そのどっちよりでアップするかその微妙な温度差を、アップする側も読む側も一致して感じ取れるという「幻想」がささえになっている気がする。
あくまで幻想だから、思い違いが双方に発生するケースがあり、芸能人が、一部のコアなファンや、なにを思ってか、親しい友人に向けてのメッセージ的な意味で綴ったたとえば自分の恋愛といった極私的な書き込みを、マスコミが嗅ぎ付けゴシップネタにしたりしてしまう。
ある程度書き手は、読者がその辺りのことを推し量ってくれるだろう、的な甘いと言われるかも知れそうな幻想がなければ、こういったツールは成立できない気がする。
だからあまりむやみにマスコミも芸能人ブログの脇の甘さをつついてばかりいると、いきおい筆がにぶり、なかなか美味しい情報を手に入れにくくなるだろう。

昔の小説や評論が面白かったのも、小説家や評論家が不特定多数の人々に向けるのではなく、数の限られた読者に向けて楽屋裏的な思いを書いていたからだろう。
いわば文学はその種の手紙を横から盗み読む類いの秘密さが魅力の根元だった気がする。
ジャーナリズムはもうそういうマイナーな面白さを育むには大きくなりすぎ、明るみが広がりすぎた感がある。それよりはネットの広大な空間に、その種の内輪的な空間を内包するエリアがありそうだ。
それが気軽に投稿でき、面白さを保つ要因になっているのではないか。
しかしある種の立場や職業の人がそのつもりで発言したとしても、その限られた仲間の内輪空間が、知らず知らずたちまちのうちに、広大な数の読者がひしめくスタジアムのライトのもとにさらされていることがあり、油断できない空間でもあることは、バーチャルといってもどこかでリアルな社会と繋がっている限り、さけられないことなのだろうか。