普通の本屋がなくなってゆく町 深い深い悲しみ

本屋は、大型書店や郊外型のゲームソフトやコミックを扱う本屋以外の普通の本屋さんは、酒屋さんやタバコ屋さんと同じく絶滅危惧種である。
そのことは、よく認識していて、さびしい思いはしていたものの、どこか他人事のように考えていた。
そのことに、つい最近近所の本屋さんが3月で閉店すると伺い、はじめて気付いた。
このような悲しさは父が亡くなって以来、絶えてなかったことだ、という思いが日増しに募り、いかんともしがたい。

じつはそれほどずっと利用していたかというと、確かに学生の時や就職してからもずっと、繁華街にある大型書店や、いわゆるセレクトショップというか、有名な品揃えが趣味のよい、ちょっとお洒落な独特の味わいの本屋さんを利用することが多かった。
しかし、日常的に立ち読みしたり、時々読んでみたい本を買ったり、新聞の書評にあった本を注文したり、そんな気まぐれな利用をさせてもらい、なんとなく、当たり前にある身近な存在としての本屋さんだった。
いわゆる駅前の本屋さんである。実際に駅前にある。
その店がなくなることで、正直どんなに不便になり、たちまちにして困るとか、そういったなくてはならぬ感はたしかにないのかもしれない。

しかし、実は店主の方と少し話を交わす程度の仲になり、何度かうかがったのは、その方は17年前に、わたしが住んでいる町にチェーン展開していた本屋が、店じまいし引き上げようとしていたとき、ご自分で店をやることを決意され、その店舗を引き継がれて残したらしい。
それは、そうしないと、町に本屋がなくなってしまうからだった、と言われていた。

わたしの子供の頃この町には三つ本屋さんがあった。いずれも小さな駅前の本屋で、わたしたちはなにかと時間を多くそれらの本屋で過ごした。
小学生のときは、『ガキでか』や『宇宙戦艦ヤマト』のコミックスをこづかいで買い求め、中学生のときはミュージックライフやロッキングオンを延々と立ち読みし、高校のときは北杜夫開高健に出会い、大学のときも、暇があれば店の一角にあった古本コーナーにあった文庫本を買い漁っていた。
わたしが、本を読むようになったきっかけは、まぎれもなく、これら地元の本屋さんで過ごした時間だった。

それらの本屋さんもずいぶん前に閉店され、いちばんあとに出店してきた元チェーン店だったが、いまは個人店主が引き継がれ、なんとかいみじくも継続されていたいまの本屋さんが、たったひとつ残っていたのだ。
その店は、わたしのなかでは、ずっと子供の頃から利用してきた、いまは亡き三つの本屋さんのイメージが合体し、ひとつになっているような存在だった。
自然にそうなってきていて、その本屋さんに行くと、ずっと昔からその店に通っていたかのような錯覚に陥るのだった。
昔から本屋とか八百屋とか金物屋とか乾物屋とかいうものは、親子代々店を営み、客も何代も親の代から使う。そんな安心感が漂う店が町には多かったはずだが、町はそういう意味では、どこもさびれた。
もうそんな店は、わたしの住む町にも残ってはいない、そのことにあらためて、その本屋さんの撤退を知り、気づかされる。

これは、どういうことなのだろうか。スーパーや量販店の時代からさらにネット時代に突入し、われわれはリアルな買い物をますますしなくなった。
その結果、何百年かにわたり、生活を支えてきた数々の身近な小売り店を、ことごとく失いつつあるのだ。
買いにいく手間ははぶけ、買い物につきまとう交渉ややりとりの時間やわずらわしさもなく、家に居ながらショッピングできてしまう。
そこにはたまたま見付ける出物や、これ負けとくから持ってってというような、自分の頭のなかだけの選択を打ち崩し、なにか大きな選択の手にみずからが投げ入れられるような感覚、その驚きも新鮮さも安心感も欠如した、孤独な、効率性と経済性と売る側のマーケティングしかない、寒く冷たい世界である。
よくも悪くも、身近についにそういう事態が起こってきて、大変遅ればせながら、深い悲しみと喪失感に襲われている。
店がなくなるとは、町がなくなることに等しい、ということを思い知らされている。