関川夏央の《文学》について

昨年の10月から今年にかけ、立て続けにブックオフやスーパーの移動古書店で、関川夏央の初期のエッセイや小説の文庫本を見つけ、手に入れた。
『貧民夜想會』『水の中の八月』『水のように笑う』『名探偵に名前はいらない』『海峡を越えたホームラン』
まだ読んでないが、これらの本は、だいたい1990年から2000年に掛けて刊行されたもので、いまは品切もしくは絶版で、新刊では手に入りにくいものだった。
わたしが関川夏央の本を読みはじめたのは大変遅い。
たしか2003年か2004年頃で、もうそれらの本は、新刊の本屋さんでは見かけなくなっていて、わたしは長くその存在さえ知らなかった。
それにしてもなぜ最近になってこうも「出会う」のか不思議だ。なにか「持っている」のだろうか。いや、これはわたしが呼ばれているのだ、と思うと、無謀を省みず、なにか関川さんについて書いてみたい気を押さえきれなくなった。
何かを書けるとは思えないが。

わたしが関川夏央のことを意識するのは、さっきも書いたが2003年頃、いまから約10年前になる。平成にすると13年くらい、歳にして40の頃。この頃が、実は「本読み」にとり「難しい」年齢であることを、わたしは最近、荻原魚雷さんのエッセイで知った。
たしかにあの頃、わたしは妙に危ない精神状況にあったみたいな気がする。押し寄せる仕事の重圧。親しい人間が次々と周囲から去っていくとともに、変転する新しい環境に投げ込まれていった。仕事にはますます忙しく追いまくられ、親身に相談できる人が急にいなくなったような気がした。
母はまだ元気で、高齢者向けの市民大学に通い、老後を謳歌していた。ところが、わたしは学生の頃、よく読んだ文学系の本は、就職してからはほとんど読まなくなっていた。たぶん、みんなそうなのだ、と思っていた。
しかし実は、この時期はつまりアートや映画など、若い頃に夢中になれたものに対し、価値が感じれなくなってしまうかもしれない時期らしい。つまりそこを過ぎて、なお本に親しんだり、同時代の音楽や映画を面白がれるかが問われる、試金石的な関門なのだ。

わたしも、そのせいか、実用的な本以外はあまり読まなくなっていた。
そんななか、ある日、たしかあれは改装したての河原町丸善だったように思う。本屋で立ち読みする癖は、かろうじてずっと継続していた。
そこで、風変わりな題名の本に出会った。
関川さんの『家はあれども帰るを得ず』だった。
わたしは、この文庫を買い求めてから、以来驚愕、驚嘆しつつ、その文章に圧倒され、この作家の本を書店で探し、読むことが日課になった(と言ってもその頃手に入ったのは、前述のように新しい本に限られていた。まだブックオフは大きな店舗はない時代だったし、学生の頃よくやった古本屋めぐりは、久しくやってなかった。再開したのはここ数年でサラリーマンを辞めてからだ)。
関川さんの本が、果たして同時代の表現や映画などに匹敵分類されるようなものであるかは、怪しいところだ。むしろ、徹底して、現代日本に対し、批判的で、逆行的で懐古的な内容のものが多い。わたしが惹かれたのも、そこであったのだから、別にそれでいいわけだ。
ただ、それだけでない、現代に対する批評性が、そこには原石のように潜んでいて、それは、読者をして、常に、知性的にイノベーショナルに現実に関わらせようとするなにかである。
古(いにしえ)と思っていた「明治」と現在(いま)のつながりを語り、現在と思っていた「戦後」という近い古の記憶を鮮やかに喚起させる。
切って捨てたと思っている過去とわれわれが不可分なことを、明確な思考で分析し、会話し、笑いつつ嘆き、深く印象を残しよどみない文章。
古くさい漢語や言い回しの多い、時代錯誤な文章でありながら、コンテンポラリーでリーダブルな文章に接したのは、はじめてといえる気がした。
いや、たしかに、それは関川さんがおそらくはじめて確立したある種のジャンルと言うに近い、新しい《文学》ではなかったかと思う。
小説ともエッセイともとれる不思議な、音楽で言う「フュージョン」的な名編が、あの頃読んだわたしには、かつて青春時代に読んで身に染みたのと同様に、記憶に残っていて、あのように本を、「飢えた」ような状態で読めたことは、おそらく意識されなかった禁断症状が長かったためと思うが、もうないかもしれない。
詳しいことはわからないが、関川さんは、彼の登場以後、ひそかに巷にあらわれ続けている、マイナーではあるが、それなりに力を感じるいわばインディーズ系文学ライターのはしりであり頂点にあたる人ではないだろうか。フリーのライターという、かなり瀬戸際の職業出身だったし、小説や批評というくくりが難しくてできないジャンル(文学エッセイ?)でのメジャーデビュー第一号というか。
関川さんが有名になったあと、その手のジャンルの先駆者として、あの伊丹十三山田風太郎須賀敦子群ようこなど有名な人たちが、そういえばそうだったんだねという感じで出てくるとしても。
これはあとで気付いたことだが、わたしの学生時代に親しかった友人は谷口ジローの『事件屋稼業』のファンだったので、彼の下宿でそのマンガをよく読んでいたのに、さっぱりその原作者の名前である関川夏央を覚えていなかった。
『知的大衆諸君、これがマンガだ』も、ハードカバーが彼の下宿にあったし、『坊っちゃんの時代』は、彼が就職してから住んでいた大阪長居公園の近くのアパートを引き払い、地元に引っ越しするときにわたしにくれたマンガだった。
それなのにちっとも、文庫本を読んでしばらくは、それらの原作者が明治や戦後の語り部であるあの関川さんと同一人物であることに長いあいだ、気付かなかった。
わたしはこの「無名性」、(「名探偵に名前はいらない」)のなかに、関川さんの魅力の秘密が隠されているような気がする。なかなか表には出てこない、野生の熊みたいなところがあるし、彼自身よく書いているように、無名性の最たるものであるフリーのライター出身だし、非常に古風なところも。
マンガの原作やルポルタージュの手法で、文学者の評伝を書くという、おそらく質的な高さの点では比類ない作品で、新たな文学の地平を開いた、国民的作家であると、わたしは思うのであるが。