バガボンド・カフェ当日になってしまいました。
資料というより、ほとんど自分の勉強のため、みたいな文面に終始してしまった気がします。また、予定の範囲をカバーしきれずに、中途半端になってしまいました。(すみません)。
もう少し、話題となる「憲法」に絞って、『敗戦後論』のなかの論述をセレクトし、提示できればよかったのですが、時間がなく、続きは実施後になりそうです。
取り急ぎ、代わりといっては何ですが、先日、朝日新聞に掲載された加藤典洋氏のコメントを、紹介します。ここで、『敗戦後論』で展開された、日本の「戦後」の「ねじれ」をめぐる論考のポイントが、ご本人のことばで語られているので、概観を俯瞰するには、いいかもしれません。(このコメントだけでは、わかりづらいかもしれないですが、、。)以下です。
安部首相の靖国神社参拝から3ヵ月半。これだけの短期間で日本の孤立が深まった根本的原因は、日本が先の戦争について、アジア諸国に心から謝罪するだけの「強さ」を持っていないことです。
(中略)
なぜ、謝れないのか。敗戦の事実から逃げてきたから。具体的には敗戦で日本が背負った「三つのねじれ」に正面から向きあってこなかったからです。戦争は通常、国益のぶつかり合いから生じるもので、「どちらが正しいか」という問題は生じません。しかし、先の戦争はグループ間の世界戦争で、「民主主義対ファシズム」というイデオロギー同士の争いでもあった。民主主義の価値を信じる限り、「日本は間違った悪い戦争をした」と認めざるを得ない。
だが、たとえ間違った戦争であっても、当時これを正しいと信じ戦って死んだ同胞を哀悼したい、という気持ちは自然です。それを否定しては人間のつながりが成り立たない。「悪い戦争を戦って亡くなった自国民をどう追悼するのか」という、世界史上かつてなかった課題に私たちは直面したが、その解決策を未だに見いだせない。これが第一のねじれです。
第二のねじれは憲法です。現在の憲法は明らかに米国から押しつけられた。ひどい憲法なら作り直せばいいが、実は中身は素晴らしい。押しつけられた憲法をどうやって選び直し、自分たちのものとするのか。護憲派もこの難題に向き合うのを避けた。それで、憲法が政治の根幹として機能しない。
第三のねじれは、天皇の戦争責任をあいまいにしてきたことです。昭和天皇と戦争については多くの考慮すべき事情がありますが、それでも私は昭和天皇は戦争に道義的責任があるし、存命中にそれについて発言すべきだったと考えています。それがなかったため、戦後多くの政治家は「自分たちも戦争責任を真剣に考える必要はない」と居直り、戦争で苦しんだ人々の思いを受け止める倫理観を麻痺させてしまった。
これら三つのねじれはいずれも、現在の課題と直結しています。第一のねじれは靖国神社参拝、第二のねじれは集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直し、そして第三のねじれが従軍慰安婦問題です。特に元慰安婦への対応は「個人が受けた苦しみや屈辱に国家がどう応えるか」という普遍的な問題で、世界中に通用します。孤立化に最も影響するでしょう。
陳腐な言い方になってしまいますが、根本は「苦しんだ人への想像力をもてるか」「それを相手に届くように示せるか」です。人も国もそれができなかったら、信頼を失い孤立するしかない。理屈もこの心の深さの上に立たなければ意味をなさないのです。
これだけのコメントでは、なかなか加藤氏の真意は伝わらないでしょう。とくに、従軍慰安婦への謝罪問題については、かなりネット上でも、賛否両論あるようです。(あまり読めてませんが)。
ちょっと、ここで、内田樹氏が、加藤氏の『敗戦後論』での論考を受けて書いた自分の文章(たしか、『戦争論の構造』だったと思います)に、自分でコメントを加えて採録したエッセイのなかから、その日本人の「ねじれ」について書いた部分を紹介して、補足としたいと思います。いままで戦後、近隣のアジア諸国に対して行ってきた日本政府の「やり口」の構造がどんなものだったの「スケッチ」と申しましょうか。
そして、これは、ビジネスの日常でも多くの場合、われわれがとってしいまいがちな招かれざる「クレーマー」への態度の実態(面従腹背)であり、戦後から今に至る日本人の「対外的」メンタリティの深部に巣食っている、どちらかといえば醜い「病」ではなかったかと怪しまれます。
以下です。
ある制度を終わらせるためには、誰かがその制度の「最後の主体」というめんどうな役割を引き受けなければならない。私はそう考えている。
これについて私は以前に加藤典洋の『敗戦後論』(講談社)に触発されて「戦争論の構造」(『ためらいの倫理学』収録)にこう書いたことがある。
<私たちはこれまでアメリカの世界戦略への「従属」や「抵抗」、英霊の「鎮 魂」や戦争被害者への「償い」について語りながら、そこで従属したり抵抗したり 鎮魂したり補償したりする「主体」とはそもそも「誰」のことなのか、という根本 的な問題をネグレクトしてきた。>
戦後日本の場合であれば、保守派は「アメリカの世界戦略をどうサポートするか」というかたちで、革新派は「アメリカの世界戦略をどう妨害するか」というかたちで、改憲派は「靖国の英霊をどう慰霊するか」というかたちで、護憲派は「アジアの死者をどう償うか」というかたちで、それぞれに「すっきり」した問いを立ててきた。
その絶妙の「分業」こそ、戦後日本が採用した「ねじれ」の処理法である。対立する二つのイデオロギー、二つの陣営の矛盾のうちにすべてを流し込み、そのあいだには対話も和解も妥協も「ありえない」と宣言することによって、日本は根本的な「ねじれ」を解消しないまま戦後半世紀をやりすごしてきたのである。「アジアの人民への謝罪」を呼号する知識人と、「失言」を繰り返す政治家は絶妙の「二人芝居」を演じ分けている。そこには少しの「ねじれ」もない。
個人的な経験で言うと、この「二人芝居」がうまいのは、「警察官」と「ヤクザ」である。「警察官の取り調べ」と「ヤクザの恐喝」は非常によく似た構造を持っている。(中略)
彼らはふつう「二人ペア」で登場する。
そして、一人が「こら、われ、なめたらあかんど!」と頭ごなしに怒鳴りつけ、一人が「そんなに大きい声出しよるから、このお兄ちゃんびっくりしとるがな。ま、兄ちゃん、気ぃ悪うせんといてや」というふうに懐柔に出るのである。
そして、この「懐柔派」の方につい心を許して、「どないでしょ、あちらの方あんなふうにおっしゃってますけど、何とかなりませんか?」と和解のためのネゴシエーションの回路を立ち上げようとしたその瞬間に、先ほどまでにこにこしていた「懐柔派」のおっさんその人が表情を一変させて、「何、甘えたことほたえとるんや。こら、殺されっど、われ」と凄み、「恫喝派」だったはずのあんちゃんが今度は、「ま、ええがな。そこまで言わんと」と助け舟を出すのである。この絶妙の「役割交換」による「二人芝居」を前にして、「被害者」は、ゆっくりとカフカ的不条理のうちに沈み込み、やがて自尊心と判断力を失い、彼らの「言うがまま」になってゆくのである。
(中略)
私が言っているのは、アジア諸国や欧米諸国から見たとき、私たち日本人はこの「ヤクザの二人組」のように見えはしないか、ということである。
(内田 樹著『子どもは判ってくれない』「日本人であることの「ねじれ」再考」(文春文庫)p.280−281)