加藤典洋『敗戦後論』(ちくま文庫)ノート① 〜バガボンド・カフェ資料その5

さていよいよ本題の『敗戦後論』に入るわけですが、お待たせして?申し訳ありません。

ええと、なかなかうまく要約できるか、自信がないながら、短めにこの本の内容をご紹介したいと思います。

まず、加藤典洋著『敗戦後論』(ちくま文庫2005年、講談社1997年8月刊)は三つのパートに分かれています。
1.「敗戦後論」1995年1月
2.「戦後後論」1996年8月
3.「語り口の問題」1997年2月
いずれも、文芸誌『群像』に発表され、そのたびに当時激しい論壇の攻撃にあったそうです。2の「戦後後論」は、1の「敗戦後論」のそういった批判に応ずる形で書かれ、さらに3の「語り口の問題」は、それら1と2に対する批判に応ずる形で書かれているところがあります。
その三つの論文の関係を加藤氏は、このちくま文庫の「あとがき」でこう述べています。

 わたしのつもりでは、「敗戦後論」が政治篇、「戦後後論」が文学篇、そして「語り口の問題」がその両者をつなぎ、その他の問題意識を相渉るところで書かれた、蝶番の論である。
 (加藤典洋敗戦後論』(ちくま文庫)「あとがき」p.334)

わたしは、ここにおいて、その当時とそしていまもおそらく継続されているであろう(してないかもしれませんが)「有名」な「『敗戦後論』論争」については、あまりよく知らないのですが、それを蒸し返すつもりはありません。ただ、この本は、多くの論者に今でも、「戦後」や「憲法」について言及されるときに、引用されたり、引き合いに出される論文であり続けています。

最近では、白井聡氏の『永続敗戦論』の中で紹介されていました。(もともとこの本は、加藤氏の『敗戦後論』の続きを、3.11後の政治状況とからめて、書かれているような感もうけます。)

それは、戦後50年(1995年発表当時)にわたり、日本の知識人がまったく意識してないか、気付きながらも見ていなかった問題、「平和憲法」や戦後の日本社会の起源に「ねじれ」があり、かつそれが深く隠されたまま、見過ごされていたという「事実」をおそらくはじめて、意識的に取り上げ、日本人が戦後ずっとそういう意味で「自己欺瞞」に陥っているメカニズムを解明し、指摘したからでしょう。

ます、1995年1月に刊行された『敗戦後論』の最初の部分で、戦後(加藤氏によれば)「隠蔽された」起源における「ねじれ」とはどういったものかを、説明している箇所を以下に、少しくわしめに紹介してみます。

いずれも、『敗戦後論』(ちくま文庫)からの引用です。

まず、「戦後は終わってない」と、毎年8月15日にマスコミがキャンペーンをはったりしていますが、その「戦後」がどうして終わってないか、について。

 戦後という時間は敗戦国によってこそ濃密に生きられる。
(中略)
 日本における先の戦争、第二次世界大戦も、「義」のない戦争、侵略戦争だった。そのため、国と国民のために死んだ兵士たちの「死」−「自由」のため、「アジアの解放」のためとそのおり教えられた兵士の死−は、無意味となる。そしてそのことによってわたし達のものとなる「ねじれ」は、いまもわたし達に残るのである。   (中略)
 日本の戦後という時間が、いまなお持続しているもう一つの理由は、いうまでもなく、日本が他国にたいして行ったさまざまな侵略行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていないからである。(p.12-13)

 これは、最初の問題提起であります。そして、短い文章ながら、なぜ、「戦後」が、こうも長く続いている(た)のか?に対する加藤氏の、仮説を提示しています。

 「戦後」は終わらない。
 なぜかというと、
 1.(「戦後の起源」に発生した)「ねじれ」が残っているから。
  そして、その「ねじれ」は、先の大戦が『「(正)義」のない<( )は、イザイ追加>』戦争であったことから生じ、「(正)義のない戦争」でいわば「無意味」に死んでいった、兵士の追悼が、いまだ公式に行われていない、という事実を、この次の章で加藤氏は指摘しています。(これは、この本が問題提起し、その後数々の批判を呼んだ部分でもあります。)

 2.(日本が先の大戦で他国に対して行った)侵略行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていないから
 である。

 「そのまま」ですが、こう書かれています。

 そして、この二つの問題は、この「戦後」をいかに「終わらせ」、日本が真に一個の「主体」として、他国にむきあう道、(あの吉田茂風にいえば、国際社会で真に「名誉ある地位を回復」する道、単に赤字の膨張したDNP第3位の経済大国としてでなく)を、もしかしたら、探し当てる鍵になるかもしれない、というふうなことが、このあと論じられます。

 実は、この二つは、この『敗戦後論』の発表当時、「他国の二千万人のアジアの死者への謝罪が先か、自国の三百万人の兵士および民間人の追悼が先か」という命題のをたて、加藤氏が、まず自国の三百万人の死者への追悼が先で、その追悼が、二千万人のアジアの死者への追悼につながる、おそらく唯一の道だ、という論を唱えた結果、数々の批判を浴びた部分の元になる問題提起らしいのですが、、、。

 他国にむきあう「主体」とは?何のこっちゃ?また、それは追って、あとの記述をみていくとしましょう。

 さきに「ねじれ」とは何か、について。加藤氏は説明していきます。

 加藤氏は、この論文の冒頭、現在まで続く日本の戦後社会を「さかさまの世界」と命名しています。なにもかもが、「さかさま」になっていると。

 そして、その原因である「ねじれ」について、同じ第二次世界大戦で、敗戦国となった西ドイツでの状況と比較するため、ある事例を、加藤氏は紹介しています。

 それは、1984年6月6日旧連合軍のDデー四十周年記念式典に参加を申し出て拒否された当時の西ドイツ首相ヘルムート・コールについての記事の引用です。(『ディ・ツァイト』は、西ドイツの主要新聞、記事は編集長デオ・ゾマーのものと紹介されていて、以下は、加藤氏が引用している文章そのまま。)

 「我々ドイツ人にとって、Dデー(ノルマンディー上陸作戦決行日−加藤典洋注)は、いずれにせよ、いくつかの痛みにみちた見解に決着を与えるためのきっかけである。・・・第一の見解は、なかでも最も辛いものだ。我々が今日、享受している自由や民主主義や繁栄は、四十年前に連合軍がアドルフ・ヒトラー第三帝国への突撃を試みていなかったら、ありえなかった。つまりそれは、我々に対しては、まず外からトータルな崩壊が押し付けられなければならなかった、という見解である。(「Dデー−賽が投げられた日」『ディ・ツァイト』1984年6月1日号)」(p.14)


こういった事態を加藤氏は、「戦争に負けるとは、ある場合には、こういうことにほかならない。」といい、続けて、日本での場合を、比喩的にこう論じています。

火事の中、地面に倒れた。と、誰かが自分の上に覆いかぶさり、気がついたら、その人はもう灰となり、すでに火は消え、自分はその灰に守られ、生きていた。その自分の真先にすべきことが、自分を守って死んだその人を否定することであるとしたら、そういうねじれの生の中に、そもそも「正解」があるだろうか。
 戦争に負けるとは、ある場合には、そういう「ねじれ」を生の条件とするということである。
 ここまできて、やっと言えるが、この極東の敗戦国日本の戦後が、「さかさま」だとは、西ドイツ同様、それがこの「ねじれ」を中核にかかえ、存立する社会だということ、しかし同時に、その「ねじれ」が、日本では、「ねじれ」としてすら受けとめられていない、ということをさしている。テオ・ゾマーの文章は、西ドイツにおける代表的メディアの社説的な文章だが、たとえば、これまで、このように苦渋をにじませた文がその苦渋の理由を自明のものとして、代表的ジャーナリストの手で書かれたことが、日本のメディアにあっただろうか。そういうことは、ないので、ねじれは、戦後の日本では、ねじれとは意識されないまま−−二重の転倒としてーーわたし達に生きられているのである。
                          (p.16)

結局、日本の場合、上記のような論調が違和感なく、明確に共有されている西ドイツと異なり、自国の敗戦によって生じた「ねじれ」た状況に対し、なぜか、目をそらし続けている、という指摘です。それが、「戦後」を長引かせ、現在に至る対外的問題(対中国、対韓国との領土問題)、また、「平和憲法」に対するみごとにまっぷたつに分かれた見解等の、見えない原因になっていないか。

なにもかも「さかさま」の世界とは、そういった、どこかものごとがしっくりいってないが、何が原因かもひとつよくわからない、といった世界であると、加藤氏は述べているのです。

少々、押せ押せの感じで書いていて申し訳ないですが、少しづつ書き継いで行きます(ので、当日まで出来たらでかまいませんので、時々みてください。ただ、大したことは書けないでしょうが、、、)。