京都58年振りの積雪 「男たちの旅路」と「相棒」 荻原魚雷「『荒地』と鮎川信夫」/「活字と自活」(本の雑誌社)

京都は元日、つまり昨日昼(たしかうちの辺りでは13時過ぎ)から雪が降り始め夜には市内でも積雪16センチという(ニュースによる)、かなりな降りとなった。わたしの家近辺はもっと降った。ニュースでは58年振りの積雪とのこと。
今年は始まったばかりだが、58年前と言えば、1957年になる。
わたしはまだ生まれていない。いわゆる「戦後」真っ最中、「荒地」という現代詩の雑誌?が出ていた頃だ。 
わたしは、詳しくその周辺のことを調べたわけではないが、大学の頃よく読んだ唯一というか、数少ない現代詩人の一人が、この「荒地」グループの中心的な詩人だった田村隆一鮎川信夫だった。
当時は80年代前半で、ちょうど「女性詩」がブームになる直前の、現代詩はなんとなく停滞気味の空白期みたいであった気がする。(あれから30年経ち、現代詩は既にわれわれの視界から消えてしまって久しい…が、昨年、なんと珍しく最果タヒという詩人の詩集「死んでしまう系のぼくらに」がかなり売れたらしい。)
当時、わたしは大学の文芸サークルに所属していた。先輩にプロ並みの詩を書く人がいて、たしか一度鮎川信夫の詩集を貸してもらった記憶がある。
思潮社という有名な出版社が「現代詩文庫」といういまもあるシリーズを出していて、そのなかのたしか「新編・鮎川信夫詩集」だった。
大学を卒業してからは、いや卒業する前からだがそんなものはすでに読めなくなっていた。いまから思えば、よくぞ先輩は貸してくれました。
「1983年といえば、新人類、おたく(族)が登場しはじめたころである。
世の中が豊かになって、苦労人の男はドラマの主役をはれなくなってしまった。」
と、古書コラムニスト?の荻原魚雷さんが『活字と自活』のなかで書いている。
それはあすなひろしという伝説の漫画家について書いたものだ。(わたしは最近この本のこの記述を読み、むかしたしかに読んだあすなひろしの漫画を、その作者の名前ごと忘れ去っていたことに気付き、妙に感慨深く読んだ。わたしがもっとも好きだった漫画を描いた人だったのだ。それはたしかバス運転手とバスガイドの悲恋の話だったように思う。)
たしかに、1983年あたり、世の中が一気に潮目が変わるというような、変化を日本がしはじめた時代だった。
当時、村上春樹の小説が人気を集めていたが、わたしは、なぜ村上が約30年後の最近、『1Q84』を長編のタイトルにして発表したのか、オーウェルの『1984』とは別に、不思議な気がしていた。だが、日本の時代的断層みたいなものがあるとするなら、1984年というのはかなり絶妙な年という気がする。
「苦労人の男はドラマの主役をはれなくなってしまった」と書かれているのは、山田太一のドラマシリーズ『男たちの旅路』が最終回を迎えたのがたしか1982年かそこらだった記憶があり、このドラマの鶴田浩二演じる主人公、吉岡指令補も「苦労人の男」に他ならなかったことを少し思い出した。
吉岡指令補は、ドラマでは何をかくそう特攻隊の生き残りという設定だった。まだ当時ドラマの主人公としてそういう設定がありえたのだ。ただしこのドラマは1976年が最初の、年一回3回連続の放送だけの息の長いシリーズだったから、あまり時代を反映していないかもしれない。
またちょうど『ふぞろいの林檎たち』が始まっていたから、山田太一も忙しくなりシリーズを打ち切らざるを得なかったのだろう。

その『男たちの旅路』で吉岡の部下役の杉本を演じていたのが若き水谷豊だった。
昨日『相棒』の元日SPをやっていて、途中からだったが、あの水谷演じる特命課警部のキレキレの推理を見た。
水谷豊といえばこの変なしゃべり方をする切れ味の鋭い紅茶好きの警部になってしまったが、『男たちの旅路』での水谷は向こう見ずで鶴田浩二に歯向かういせいのいいおっちょこちょいだが純情さもある青年ガードマンだった。
あの森田健一が、青春ドラマ『俺は男だ』が終了し、「お茶の間」のテレビから姿を消してから、久しぶりに水谷豊の同僚役として、突如現れたのも、このドラマだった。

昨日の『相棒』では、少し珍しく水谷のロマンスを扱っていた。石田ひかり演じる犯人側の女性が水谷に心を寄せてしまうが、彼女は犯人の指示の通り、水谷への思いを秘めたまま自殺してしまう。
犯人は水谷に恨みを持って死んだ(富士山の樹海で集団自殺した)ある男の「代行」をして水谷に復讐するという話だった。
犯人は、実はその集団自殺の仲間で、いわば死にそこなった人物という設定だった。石田ひかり役の女性もその一人で、二人は生き残ったのは「なにかの理由があるのだ」と話し、再び生きはじめる。そして、その理由を、富士樹海で単にその場で偶然であい一緒に自殺した「仲間」の復讐を成し遂げるためだ、と思い込み、そのために生きる。
わたしは、ふと、この生き方は実は「荒地」の詩人たちの生き方の核にあるものではないかと、テレビを見ながら思い付いた。
そのことはまたあらためて書きたいが、彼らがなぜ「エトランゼ」として生きた位置が、その生き残った犯罪者という立場とにていると気付いたのだ。

その荻原さんの『活字と自活』に「『荒地』と鮎川信夫」という文章がある。
「日曜日、起きたら昼の三時だった。」ではじまる。
わたしもいま、実は母が骨折し入院していて、独り暮らしの自堕落さで、夜勤があるからという訳もあるが似たような生活を送っていて見につまされる。
著者は「寝ぼけた頭で自分がどんな本を買うか試してみたかった、というのはウソで、頭がぼけているので、古本でも買えば目が覚めるかなと思ったわけである。」と書いている。高円寺の古書のイベントに行くのだ。そこで「格安」の『鮎川信夫著作集』の「戦中作品」の巻に出会う。
だがこの文章は、その頃復刊された田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)のことが中心的なテーマになっていて、その本のなかの「『若い荒地』を語るという座談会」を少し引用して紹介してあった。 
そこに「N・Tの滅亡」という鮎川が日記に書いていた言葉が出てくる。
鮎川が23歳の時日記に書いていた言葉で「N・T」とは日本帝国の暗号だ。そこで鮎川は当時を回想し「友だちで既に昭和十四年に書いた日記でも、刑事に踏みこまれて調べられたということがあるんだよ。相当気をくばっていた。だから、日記にも感想を書けなかったということもある。」とこの座談会で語っている。
いまなら「日記」はWEB上にあるから、「検閲」し放題だろう。「特定秘密保護法」施行されたいま、既に行われているかと思われる。
鮎川が「N・T」と書いたのは、荻原氏によれば、1941年10月17日の日記でだという。
「〈今日こそ町から帰ってN・Tの滅亡を予言することが出来る。この悲しむべき予兆を一体誰が考えているだろうか〉たんなる偶然にすぎないが、10月17日は鮎川信夫の命日でもある。」(荻原魚雷「活字と自活」(2010年本の雑誌社
憲法」と集団的自衛権について、元旦の「朝生」が激しく(昔、大島渚野坂昭如らがいたときほどでないが)語っていた。
このような「戦前ムード」の時代だからこそ、今年は「荒地」のことを思い起こしてみたいと思い書いてみた。
☆前回書いた記事中「小椋佳」を「小椋圭」と書いてしまっていました。お詫びのうえ訂正します。
なおずっと前の記事中、格安航空機のことを「LCA」と書いていましたが、正しくは「LCC」でした。これも訂正します。
雪の様子↓