2014年末「憂い・愁い・ウレイ」考 小椋圭の音楽

ついに今年も残すところ一日。今年は年末に個人的に多忙になり、そういった「師走感」の少ない日々を送っていた。
昨日30日、夜勤出勤途上で、昔からある餅屋さんが店頭にお餅を並べて売っているのを見て、さすがにオセチとか餅とかまったく意識なく過ごしていたことがさびしい感じがした。
みんなが買っているのをみて、わたしも餅を買った。
すぐに食べてみた。
まだつきたてで柔らかい。美味しい!。餅は餅屋とはこのことか!
さらに追加して買うと、二個もおまけしてくれた。(おばちゃん、ありがとう〜)。

さて今年を振り返ってみても、昔ほど区切り感なく過ごしているせいか、感慨が希薄だ。しかし、いちばんわたしにとって印象深い言葉といえるものはあった。
それはあるテレビ番組で宇崎竜童さんがチラッと話していた「日本の最近の歌にはウレイがなくなった」という言葉だ。
これは今年という年には限定されない事項だが、個人的にはそれを意識した年だった。
前にそのことをここに書いたとき、わたしが小学生の頃流行った小椋圭さんの「揺れるまなざし」という歌をちょっと取り上げた。
先週土曜日だったか、テレビでその小椋圭さんの「生前葬コンサート」というものを放映していた。久しぶりに小椋圭の歌をまとめて聴いた。
わたしは以前にも小椋圭のコンサートをたしかテレビで見た記憶があった。番組でご本人が語るには、なんとそれは40年前にはじめてこの歌手がコンサートをしたときのものであるらしいことがわかった。
1974年のNHK特集だ。なんと小椋圭はそのときとこの今年の生前葬コンサートと二回しかステージでは歌っていないという。
いずれも番組の収録のために観衆を集め行われたものだった。彼はずっとレコーディングアーチストを貫き、普通のミュージシャンらしいことは一切せず、銀行員とシンガーソングライター(の先駆け立ったように思う)の二足のわらじを履き続けたのである。
わたしはあの井上陽水の「白い一日」が小椋圭の作詞だったことを、そのテレビ番組ではじめて知った。
小椋圭の名曲、「シクラメンのかおり」「さらば青春」「俺たちの旅」などの楽曲を聴いていると、演歌のコードが都会的な洗練と合体して、70年代という時代がいかなるものであったかを伝えているように思った。
それは学生運動後、急速に広がった日本のサラリーマン、つまり中産階級の感性の本質を形づくったのではないだろうか。
陽水と小椋圭の組み合わせは、演歌中心の歌謡曲を、シンガーソングライターという存在を媒介にして、ニューミュージックに移行させる大きな推進力になったように思われる。
そこには演歌(日本的ウレイ)とフォーク(若者の自由で都会的な感性)の幸福な合体がある。それはユーミンオフコースなどの登場により日本のポップスの本流になった。
それともうひとつの大きな流れ、岡本おさみ吉田拓郎ペア(こちらは演歌とローカルな地方の民謡的なフォークを基礎とした反体制ソングとの合体)がある。
ふたつの大きな渦はともに以後の歌謡曲の流れを根底から変えてしまった。日本の歌の歴史の大きな進化がそこに見られるように思う。


歌は世につれ、世は歌につれ。
おそらく、今日の紅白では、いかにウレイといった感情をわれわれが失ってしまったかを深く確認する場となることだろう。
ウレイというのは、たぶんことばにできない民族的といえる感性だと思われる。それは時代を越え歌い次がれてきたのだが、ここへきてわれわれはそれを見失いつつあるのではないか。
たしかに、ウレイの代表は演歌なのだろうが、演歌はすでに前線的なメジャーの位置から後退し、民謡のように遺産的な存在になっているように思う。
昔のように世代を越えて歌われる歌がかなり少なくなっている原因は、おそらく、歌謡曲が民族的な感性の根を失いつつあるからでないかと思う。
さて来年、どんな年になるでしょうか。
ともかく、読んでくださっているかたがた、更新めったにせずにすみませんでした。
よいお年をお迎えください。