いくら最近のテレビにうといとはいえ、、痛いミスでした

以下の記事、久しぶりの更新で力みすぎのためかメチャクチャ恥ずかしい間違いをしていたのに気付いた。
標題、文中(一部はそのまま)「あまちゃん」→「ひよっこ
有村香澄→有村架澄(これも間違い:正しくは「架純」でした、、、!)
の間違いでした。
お詫びして、訂正します。

朝ドラ「あまちゃん→ひよっこ総集編」 ドラマ「ハロー張りネズミ」

なかなか更新できてませんが、今日はいきなり最近目にしたテレビ番組について。

最近、新聞とともに見なくなっているテレビ。たしかにちょっとした家庭の事情で、ずいぶん長いあいだ、ゆっくり見ている時間がなくなっているのだ(代わりにAMラジオをよく聴くようになった)。
しかし、考えてみると、これってもう老境ってことなのか、そう思うと少しショックである。
やはり、少しは見ないといけない!とは正直思わないが、まったく離れるような覚悟はまだなく、ある程度は流れをつかんでおきたく思う。

見たい番組がないのも理由なのだが、ときたま偶然目にした番組が、案外面白くつい引き込まれるときが数少ないがある。

最近、出会ったひとつは、これは総集編ではじめて見れたのだが、いまはもう終わった朝ドラ「ひよっこ」。
遅すぎる気付きではある。
総集編はかなりとばしとばしのはずだが、それでもいや〜面白かった。
とくに、主人公の有村香澄が働く食堂の裏のスペースのセット、ベンチや樹がある風景は、実際にあの時代にあったのを実感できた。やけに懐かしさを感じるセットだった。
あの時代は、朝ドラの舞台としてそう昔ではない。
しかしたしかに現代ではもはやない。
総選挙の結果次第で改憲が本格化しそうないま、1960年代から、ずいぶんわれわれは遠ざかってしまったのを感じる。

有村香澄は不思議な女優だ。影が薄そうで、そうでなく、意外なパンチがある。
あまちゃん」では能年のパワーに霞んでいたが、そういう役だったから仕方ないが、なぜか昔の日本映画に出てきてもおかしくない雰囲気があり、今回の朝ドラ抜擢は大正解だったと思う。
これも演技(演出)なのか。いや、たぶんそれだけじゃないだろう。ああいう人が出てきて人気がでるという事実、懐かしいだけじゃない。あの昭和時代とのリンクがいま意外とあるのかもしれない。
そしてもうひとつ偶然目にしたのが夜の枠のMBS(:TBS)ドラマ「ハロー張りネズミ」だった。
これも9月に最終回があったらしく、もう見れないが、いい出来のドラマだった。

あの山口智子がめずらしく出ていたところを見ても、彼女が認めるくらい質の高いスタッフが作っているのかと思われる。
これはわたしの世代が昔見ていた「探偵物語」や「俺たちは天使だ」に通じるコメディタッチだが実は深いテイストのある良質のドラマだとわかった。昼間か夕方の再放送が待たれる。

さて選挙は台風とぴったり重なるみたいだが、どうなることやら。
なんと何年ぶりかで日曜日実施の時代祭は中止を早々と決めたみたいだ。

洗濯機と母  公と私(ブッダ・カフェにて)

この間から、コインランドリーのことを少し話題にしているが、なぜかといえば洗濯機が壊れかけているからだ。ラジオではないので、洗濯機が壊れかけても歌にはならない(笑)。

ところが、気まぐれにちゃんと動くので、買い換える気にはならない。先日も、ちゃんと動いていたのに、急に動かなくなり、一週間ほど我慢していたが、さすがにランドリーへ駆け込むことになった。

どういうふうに壊れているかというと、脱水とそれに類する動きになると、止まってしまうのだ。全自動の洗濯機には、すすぎのとき、軽く脱水をするプログラムがされている。なので、すすぎもできないことになる。

だが、すすぎは洗濯モードを石鹸なしで行えばかろうじてできる。問題は、脱水だ。昔は、手で絞っていたのだろうが、もはや洗濯機に慣れきったわたしには即答で「無理」。

脱水だけのために、ランドリーへ行くのももったいないので、洗濯物をためていたら、さすがに着るものや母の排泄介助につかう下用タオルがなくなってきて、尻をたたかれるように、洗濯物を車に詰め込んでランドリーへ走っていたのだった。

しかし、ついこの間、ためしに使ってみたら脱水がまたできるようになった。

この洗濯機の不調の期間、実は母が軽い肺炎になり、熱が下がらない状態でずっと過ごしていた。先週からやっと熱が下がり、食事もできるようになってきたが、まるでそんな状態に合わせたかのような、動きの悪さなのである。

もともとは、母が使い続けていた機械なので、何か感じているのかもしれない。

25日は毎月恒例のT正寺のブッダ・カフェであった。参加したりしなかったりで、また最近、常にタイムリミットに追われており、昔のように最後までいれないのであるが、いつも参加されている方への言付けもあり、少しの時間になってしまうが、それを覚悟で、ちょっと無理して参加した。しかし、いろいろと収穫はあった。

なかでも、主催者のT野さんが、話してくれた『言海』という、日本で最初の近代的辞書編纂の話は、興味深いものであった。

少しの時間聞いただけの話なので、ここに詳しく書くことはできない。また、正確にはT野さんがたぶんどこかに発表される予定とのことで、いまわたしがこうして書くことにもし問題があれば、いけないのであるが、どこが興味深かったかだけ、自分のために書いておく。

この辞書編纂の作業は明治政府の国家的事業なのであった。おそらく、お金も出ていたであろう。だが、それ以上に、この事業は編纂者の言葉への情熱を傾け、その発露ともなる個人的な仕事でもあった。

つまり、その編纂者のライフワークでもあったのだろう。

この種の事業や仕事というものは、たぶん歴史に名を残す人たちに共通の個人的なフィールドと公的なフィールドとの幸福な掛け合わせが存在すると思われる。公的な縦軸と私的な横軸が重なり合う場に、その個人の情熱が加わると、ある種の限界を突破し、それが行われる前には到達不可能と思われたようなことをやり遂げてしまう、みたいな。

ところが、昭和初期に日本が満州の植民地経営に乗り出した頃、蒙和辞書を編纂する必要が生じ、同じように民間の研究者が公費を使ってだろうと思われるその事業にあたることになった。

固有名は忘れてしまったが、そういう事実があり、この蒙和辞書の編纂のことをT
野さんが調べているうちにあることに気づいたという。

それは、明治の頃の『言海』とこの蒙和辞書、民間の学者が委託された国家事業として、両者の成り立ちは同じなのに、「ベクトルが正反対を向いている気がする」とT野さんが言っていて、それが非常に面白かった。

どういうふうなメカニズムで、ベクトルが反対向いてしまうのか、そのあたりのことを調べると、この明治の時代と昭和の時代の、まさに反転したかのような歴史の秘密を説明できるかもしれない。

わたしには、それがなぜそうなるかはまったくわからないが、T野さんが言っている意味「ベクトルが正反対」という状況は、よく想像できる気がした。

というのは、昔働いていた企業でも、それとよく似た状況は発生していたからだ。

私的ながんばりが、会社のためにもなることで、経営は良好になる。反対に、会社の仕事であっても、それを私的なくくりで切り取ると、「公私混同」というべき堕落を呈していたりするケースもあった。

特にサービス業であったようなわたしの前職では、お客の扱いが、特別扱いになるとき、あきらかに私的でもあるのになんとなく気にならないで、公的に許容できるものと、私的な意向がいやな感じででてしまい許容できにくいもの、とに二分できたような気がする。(具体的な事例はなかなかおもいつかないが、、)

近頃ずっと話題になっていた「M友学園」問題も思い起こされる。こうした事例で、許されるケース、もなかにはあるはずだ。なぜ一方は許され、他方は公私混同になるのか、その「公私」の交わりのメカニズムがわかれば、納得いく説明ができそうだ。

わたしには、それはうまく説明がまだできないが、T野さんが「ベクトルが正反対」という表現をしているのが、言いえているように思え、面白かった。

コインランドリーPart2 山一パン総本店の菓子パンが美味しい

前回近くにできたコインランドリーのことを書いた。まだ行ってみてはいないが、広告を見て気付いたことがある。

24時間オープンしているのはだいたいどこも同じだと思うが、そこはなんと9時から17時までスタッフが常駐している、と書かれていた。
何か機械操作でわからないことなどを教えてくれたりするのだろうか。

それと関連しているかもしれないが、このランドリーは某Kーナンというホームセンターに隣接していて、そこの駐車場を無料で使えるとのこと。
「お買い物中に洗濯ができます」とのキャッチフレーズがあった。
その点、有人だと、何かと安心で、実際買い物中に洗濯をする人も現れるかもしれない。

実際こうしたパターンのランドリーがどこか他所でもあって好評だったりするのだろうか。今後の流行りぐあいをこれから観察したい。

ところで、標題の山一パンは懐かしい名前である。
昔、たばこ屋兼お菓子屋で売ってた菓子パンのイメージがあるが、このところ菓子パンというのはコンビニで買うのが主流になった感がある。
そこでは大手コンビニのプライベートブランドというのか、代表的なあんパンやクリームパン等の菓子パンが並んでいる。
しかしそれらを手にとってみるとY崎とかK戸屋、あるいはS島パンとかいう大手菓子パンメーカーのクレジットがパッケージに印刷されているのを見る。
コンビニの菓子パンはほぼ大手パンメーカーの商品なのだ。
わたしはとある理由から、パンを買うのを最近やめたのだが、手軽に食べられるという得難いメリットがあり、なかなか断ち難くついかってしまう。
最近近所のスーパーで、買った菓子パンは変わったパッケージで、ところ狭しと並んだ大手メーカーの菓子パンの棚の片隅に集められていた。
それが実は、京都山一パン総本店という銘柄のパンで、懐かしい昔の菓子パンの味がした。
たしか昔「コロナ」というパンがあって、よく幼稚園のときおやつかお昼の休みのときに出ていた。
上側のまん中にクリームが入れられたパンであった。
先日食べた山一総本店のパンもまん中にクリームが入っていて、おまけにリンゴのシロップ漬けが添えてあった。

コロナよりは小ぶりだったが、美味しかった。

そういえば、昔はいまのメロンパンのことをサンライズと呼んでいた。コロナも太陽を連想してネーミングしたものであろう。
昔の菓子パンはなぜか太陽ネタが多いのに気付く。

ちなみに、この山一パン総本店とは昔の山一パンとどういう関係なのだろうか。
他の店やコンビニでは山一パン自体はほとんど見かけないので、なにかわけがありそうであるが、まだ調べてない。

それからそのスーパーに買い物に行く度に、その山一の菓子パンを一つ二つ買って食べるようになった。
あたりはずれなくみんな美味しく感じる。
値段は若干コンビニパンや他の大手菓子パンより高めなのだが、わたしにはパン屋の菓子パンより美味しく思えるのだが。

新聞と新しいコインランドリー

ずいぶんこのプログを更新していない。
このままではずっと更新せずずるずる行きそうなのでなんとか少し書いてみたい。
今日は夕方新聞屋さんに新聞代を支払いに行った。わたしが留守がちなので集金のタイミングとなかなか合わないので、やむなくこちらの方から出向くことにしているのだ。
先月は20日過ぎてからしか行けなかったので、今月もう月は変わってしまったが、店の人が、あれっ、この間払いましたよね、と言っていた。
「いやあれは前の月のやつなんで」と正直に答えた。正確に言うと先々月分なのだが。
新聞は果たして続けるメリットはあるのか、は悩みどころだった。
特に最近は読んでない。

読む時間がない。それで母の介護オムツの包み用紙と化しゴミ箱へ行ってしまっている。

だがなんとなく止められない。家族でとっている意識もあるが、読むのはいまはわたし一人なのだ。

しかし、単身世帯の増加とネット隆盛の荒波は高く、このままでは早晩新聞社は沈んでしまうだろう。
やめるのは簡単だがその波の片棒は担ぎたくない。

新聞がなくなれば、政治家はやりたい放題、でもないだろうが、監視の目がかなり消えるはずだ。

新聞社自身、偏向報道があって、報道規制しまくっているし、読む価値が果たしてあるかどうか怪しい部分もあるが、、。

ところで、最近その新聞屋さん(実は宅配地域合併でうちの地域にはなくなり、隣の町に行かないといけない)の近くに大型のコインランドリーができたらしい。今朝実はその広告がポストに入っていた。それで前を通ったので、見ていたらやはりというか、実際にできていた。
あらためて帰ってから広告を見た。
するとかなり最新の機械で、洗剤もソフナーもいならくて、機械が入れてくれるらしい。

しかし料金は、乾燥まで自動で10kg1000円と高い。
だが、どうも最近新しいランドリーを町でよく見かける。
利用者が増えているみたいである。
多少高くても自動で乾燥までしてくれたら決して高くはない、と考える人が増えているのかもしれない。

知人によれば高温で除菌もできるので家でやるより衛生的にもいいらしい。

そう言われれば、そうかもしれない。なかなかいまはわたしも物干しに干す時間や天気に恵まれず部屋干しすることになっているのだ。
ちなみにいまは8月中頃までオープン記念で半額でできるらしい。

ブログサイト変更します。

ずいぶん長い間こちらのブログを更新していませんでしたが、今後、以下のサイトにて、日記を継続していくことにさせていただきます。

訪れていただいた皆様、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いいたします。

izaiの日記

夏到来〜ゆり園

わたしは植物には、ずっと疎いまま馬齢を重ねてきて、最近になって少しばかり勉強したり、実際ボランティアや仕事で少し関わったり、しているまっ最中だ。

いま入梅の時期というのは、「ゆり」の見ごろの時期であるらしい。

ラジオを聴いていても、各地の「ゆり園」の情報などを紹介したりしていて、今の時期のそういった観光のスポットになっているみたいである。


わたしの知人が、京都府南丹市H町で現在、ゆりの中でも、かつては身近に自生していた「ササユリ」という種を復活させようと活動されていて、時々手伝いに行ったりしている。

あろうことか、わたしは比較的山に近い場所に住んでいて、こどもの頃から山野で遊ぶことが多かったが、このササユリ、特に花を見覚えたことがない。もしかしたら目にしているのかもしれないが、まったく覚えてないのだ。

子供のことだから、たぶんまったく興味がなく、見ていても何も思わなかったのかもしれない。

それでなのですが、実は、そのH町の知人が、そういったユリの見れるスポットを山野を拓いて造園していて、ゆくゆくはたくさんの人が山野草を見にきていただけるスポットにしようと活動している最中である。

これは実に骨が折れるし、資材やお金もいる作業なのだが、たとえばササユリなどは、本当に昔は山の植林地の下草に混じって普通に咲いていたらしい。

ところが最近めったやたらに出没する鹿やいのししにより絶滅しかかっているという。少なくとも、普通に見れるような場所にはめったに見られなくなってしまったのだ。

そうした山野草はたくさんあるようで、その保護というのは急務である。そんな活動を、身を挺して先駆け、やろうという知人の気持ちには非常に共感するし、なかなかできることではないと感心している。

いちおうプレオープンイベントのブログを紹介します。→ささえあたご山野草苑日記(旧:佐々江あたご山山野草苑準備ブログ)

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