弟(昔の世代)の犯罪(戦争)を家族(国家・共同体)は謝罪すべきか?〜「ハーバード白熱@東大」(2)

前回少し触れたNHK・ETV特集ハーバード白熱教室東京大学」については、ネット上でかなりコメントが見られた。
同番組でこれまでに放送されたハーバード大生と今回の東大生(ばかりではなかったらしいが)との比較など、みなさんわりと分析されていて興味深かった。

それらはまたサイトをチエックしていただくとして、「正義」の問題が最終的に「国家の戦争」問題、ひいては侵略側の「戦争責任」問題にぶち当たったのは、サンデル教授も述べていたように「避けられない」道筋だったように思う。
現今の騒ぎ、中国が、領海について、あきらかに違法なのにもかかわらず、うるさく言ってくる根には、日本が65年前に負けた戦争で中国を侵略したことを、公式に謝罪してないこともあるのではないか。
逆に言えば、それを逆手に取り、権益を広げようとしていると、穿った見方をすれば、みえなくはない。
問題を整理する必要があると思われる。
国家は「正義」を振りかざし、戦争をする。日本もそうだったし、湾岸戦争、アフガン侵攻のアメリカもそうだった。アラブの国々もイスラエルもみなそうであるといえる。
その「正義」ははたして正しいのか。
今となっては、日本の戦争が、謝罪こそしなくとも、軍部独走による侵略戦争だったとの見解が一般的だが、当時の日本人は、一部の人以外はそうは考えなかったろう。
またいかに第三国から見れば、狂気に近いテロを繰り返している中東でも、当事国は、アメリカ政府を悪と信じ、ゲリラを敵とは思ってないだろう。
サンデル教授は、授業後半で、この国家間の「正義」の問題をこんな問いに変え、学生に投げ掛けていた。
■もし家族、たとえば自分の弟が犯罪を犯したら警察へ通報するか?…共同体への忠誠と正義との葛藤問題
●別の共同体(家族・地域・国家)がひどい災害に見舞われた場合、共同体の利害を越えて援助できるか?…共同体は、自他どちらが優先されるかの解決

それらに対する参加者の議論
第一の問い
□通報する。弟は共同体(国家というより家族)のルールを破った者なので。→共同体(家族)への忠誠を破ることにはならない。
□□通報しない。家族が殺人を犯しても守る。→それが家族だから(他の共同体である国家から守るべき)

続いて第二の問い。
●災害に見舞われた別の共同体を、自分の所属する共同体の利害を越え、援助できるか?についての参加者の意見
○自分は生まれてから共同体により育てられ文化に育まれた以上、共同体に恩義があり、所属する共同体の利益を優先させる責任がある。だから余裕がない限り、援助はしない。
○○困っている共同体は、助けられるべきで、もし助ける余裕がなくても、どちらの共同体がより貧しいか等、を指標として、援助すべきだ。

代表的な意見は以上だった。
第一の問い「弟を通報するか」については、前者の意見、「家族とはいえ犯罪を見過ごせないので、警察に訴える」の方が多そうに見えた。
しかし、かりに、「罪を犯した弟」を「侵略戦争をした軍国日本」に置き換えたらどうなるだろうか。
それは、授業でこのあと、浮上してくるジレンマだ。
兄弟の罪をかくまうのには、躊躇しても、「国家の罪」を擁護することは、そんなに違和感はない立場に思えてくる。
いや、それどころか、当時の国際情勢から、戦争をした戦前の日本をやむなしと弁護する立場は、現在でも大手を振って受け入れられているのだ。
この第二の問いは、次なる第三の問いへのステップである。
問題が、家族という最小単位の共同体から、国家という最大の規模のものに変わると、共同体への忠誠のレベルが格段にあがり、「正義」の定義が揺らいでくるのがわかる。

さて、つぎにサンデル教授は、問うていた。
中国や韓国に対する戦時の日本軍の戦争責任について
▼当事者でない君たちは、先祖の日本人の悪い行為について、謝罪する責任はあるのか?…共同体の「犯罪」の時間を隔てた構成員の責任問題
そこで、第一の質問に回答した参加者が、
▽自分を育て、面倒を見てくれた共同体の恩恵を被っている以上、前世代の罪は自分達も責任がある。
と言っていたのは印象的だった。
反論は、
▽▽自分は生まれるにあたり、どの共同体に属するかの選択権はなかった。偶然属することになった共同体が、自分の生まれる前に関わった行為の責任は背負わなくてもいいはずだ。というものだった。
これについてサンデル先生は、
「道徳的責任は、自分で自主的に選んだものにしか発生しないのか?」という問いをだしていた。
それについて、その意見をのべた学生はそうだ、と答えたが、別の学生は、会社の不祥事をあげて、社員なら謝るべきだ、と言っていた。
そして議論は、日本に対するアメリカの戦争責任を問うことになる…。
現在、尖閣諸島をめぐる中国の横暴な振る舞いが報道されている最中であり、「謝罪」という言葉について、取り扱いが非常に難しくなっているのは、確実だ。
連日、民主党のぶれまくる対応に不安を感じているから、なおさらだが、中国の対応にも、こと安保条約が言及され、アメリカの影がちらつくと、妙に友好的に軟化したり、読めないところがある。
前原大臣も、言わなきゃいいのに、安保を出して、アメリカの後ろ楯頼みでなんとも情けない。
それもおそらく原因は、戦後65年経ったのに、根本的な精算、戦争の責任を日本が表明せぬまま、いままで過ぎてしまい、対中国、韓国への外交の足掛かりが、安保条約しかないため、ふらついているのだ。そして悪質なクレーマーに対するみたいに、「言質をとられまい」とあたふたしているのがよくわかる。
これでは事態は悪くなるばかりで、場合によっては、普天間の二の舞になる可能性もなきにしもあらずだ。
では、われわれは、過去の「罪業」をアジアの国々に対し、どのように表明すれば、本当に正しいのだろうか。
昨年出版され、画期的な日本人論とされる「日本辺境論」の著者、神戸女学院内田樹先生は、ある著書で、こんなことを述べていた。(これはかなり前になるが2003年に出版された「子供は判ってくれない」という、内田先生のブログを元にしたエッセイ集の文章で、「ハーバード白熱教室」には直接関係はないものの、偶然だがあのテレビの議論にうってつけの内容であった)
★内田先生がRという中国人の各員研究員から「現代中国の一般庶民の感覚からして、日本が中国侵略の公式謝罪がないのと、戦犯を合祀している靖国神社に政治家が参拝するのは理解できない」と言われたことについて、
「私たちは、やはりR先生が『代表する』中国人民の訴えの前には、日本人を『代表して』静かに頭を垂れて『すみません』と謝罪するほかにとるべき道はないと思う。
国民国家というものは、そのような『擬制』である、と私は思っている。
「私は日本という国家の逃れられない『共犯者』である。
「私はあきらかに国家からの『恩恵』を蒙っているからだ。多少はひどいめにも遭っているが、トータルでは、『私が国家に奉仕した分より、かなり多めに私の方が国家から恩恵を受けている』ことについては確信がある。」
(『子供は判ってくれない』内田樹・文春文庫/p.251「日本人であることの『ねじれ』」)
ここには、前世代の戦争責任だけでなく、その戦争責任について歴代の日本政府の態度がずっとはっきりしないこと、政治家がいまだに戦争加害者意識より、共同体の記念碑の参拝を優先していることまでも、公式ではないが、被害者の「代表」に謝っている、日本の「代表」がいる。
まるで罪を犯した弟の、その罪でなく、あの態度はなんだ、とかあの目付きが気に入らない、などと被害者の家族に言われ、平謝りしている加害者の家族みたいに。
それが理不尽であることを深く認識しながらも、国家とは、国民とは「そういうものなんだから」と、内田先生は言い放つ。
さらに、このような共同体への「擬制」に基づき、説明したり、叱責されたりすることは、健全な「常識」と語り、このように述べられていた。
「R先生と話していて感じたのは、中国の人たちも、ある意味ではこんな議論に『うんざりしている』ことであった。彼らもまた、こんな議論の水準からはいいかげんに離陸して、もっとリアルで、もっと開放的で、もっと生産的な、『日中の未来』について、語り合いたいのである。だが、そこに進めないで足踏みしているのは、私達の側の責任であって、中国の人たちの責任ではない。
「そのために必要なことは、不条理なようだが、『自分とは意見を異にする人間たちをも含めた日本』という国を私たち一人ひとりが、外国人に対しては『代表』するという『苦役』を受け容れることだと私は考えている。そのような『苦役』をあえて引き受ける国民同士のあいだでのみ、『国民国家止揚する』方途について語り合う機会が生まれるのだと私は思う。」
なんと、これはあの「白熱教室」で、最後にサンデル先生がいみじくも語った言葉と似ていなくもない。
「わたしが素晴らしいと感じたのは、みんなが異なる見解を示し、心の深く根差した信念によって意義をとなえながらもなお、お互いの意見に耳を傾けあったということだ。そして問題の根底にある道徳的原理について議論してきたと言うことだ。
「このような考え方、議論の仕方、論法、お互いに意見を聞き合うやり方は、意見が一致しない場合であっても、お互いに学び合うことがある。
「たぶんこれが、われわれの社会の中で、公共的生活を行うやり方だと思う。それは安田講堂の外でも同じだ。君はどう思う?」
(2010年9月27日 NHK ETV特集ハーバード白熱教室東京大学』)