セカンドハンド本の盛衰2

前回、BOOK・OFFの100円均一棚にない本について書いたが、わたしはあまりこの手のことに詳しくないくせに、訳知りめいたことを書いてしまった。
だから、書き加えることは控えたいところだが、少しだけ。
わたしはもっぱら、BOOK・OFFでは、100円均一ジャンキーに徹しているので、あまり気にかけてなかったが、いつからかわからないが、BOOK・OFFの商品にバーコードのシールが貼られている。
だからレジを通すとどの商品が売れているかデータ化でき、おそらく値付けに反映されている可能性がある。
バーコードがいつから導入されたかわからないが、その前、バーコードがないときは、詳しくはもちろんわからないが、BOOK・OFFの古書は単純に、汚れがないこと、刊行日の一日でも最新の本に高値がついていたであろう、気がする。

なんとなく、これはあくまで気がする、程度のことで正確に調べたわけではないのだが、、。
だがバーコードで商品管理されれば、古書の見た目のきれいさや、刊行年度の新しさという尺度以外の、つまり、人気による評価が加えられることになる。
つまり、ある特定年度の刊行書籍(片岡義男の赤の背表紙の角川文庫みたいな)レアな商品に人気が集まる、というデータが出て、となると高値がついたりするであろう。
現実にそこまで詳しくデータを読み取っているかはともかく、これは普通のこれまでの古書業界には当然いまもある指標である。
いわゆる「骨董的な価値(に似て非なるものという気もするが、)」が指標に加わるだろう。
それとは関係ないが、いつからかBOOK・OFFでいろんな種類の辞書が100均で売られるようになった。
おそらく、購入の機会が少ないが確実に(入学や進学)あったであろう辞書。
いまやスマホがあればわからない字や単語は即座に調べられ、不用品扱いになったのだろう。
新刊の売価が高いだけに、わたしにとってはかなりショックだった。
だが、インターネット登場から情報というものがほぼ無料で、簡単に手にはいるものと化した、この時代の反映であるとも言えるだろう。
そういう意味でも、セカンドハンド本の市場というものは、時代をよく表しているように思う。

BOOK・OFF 20%OFF(5/6まで)セカンドハンド本の盛衰

久し振りにBOOK・OFFに行ったら20%割引セールをやっていた。連休の客寄せらしく、5/6まで、本だけらしい。
あまり買いすぎないよう注意して買う。BOOK・OFFで買って、読んでない本がまだたくさんあるから。

BOOK・OFFの特に文庫の棚を見ていると、特定の本は108円均一の棚に見当たらず、めったに値崩れしてないものがあることに気付く。
最新刊の文庫や本が値崩れしてないのは当然だが、古くからある特定の作家の本で、いくら探してもない場合は、絶対量が少ないまったくの希少本(つまりあまり市場に出回ってない)か、みんなが探して買ってる(市場価値が上がっている)らしきことが、なんとなくわかる。

このような古書市場の人気は不動のものもあれば、あだ花的な移り変わりに左右されたりもするだろう。

たとえば、30年くらい前ならわんさと新刊本屋で並んでいた、片岡義男の赤表紙の角川文庫は探してもめったに見つからない。
たぶんマニアの間で高価で取引されていることが予想される。
もしかしたら、繁華街の古書店にはなにげなく100円で置かれていたりするのだろうが。
これはすでに何年か前からはじまっていたらしく、不動の域にあるかもしれない。

なんとなく、これはそう遠くないここ最近、そういう意味で「探されている」ように思われる本がある。

佐藤愛子の本だ。
この方の本も刊行点数がべらぼうに多く、20〜30年前には、たぶん片岡義男に並ぶ勢いで、駅前の普通の本屋さんでたくさん見かけた。
たとえば東海林さだおとか伊集院静だとか、いわゆる週刊誌連載エッセイをまとめました系のジャンルのひとつだった。
だが昨日いった近所のBOOK・OFFには、値崩れしてない棚に、かなり新刊に近いピカビカの文庫がそこそこの値段で置かれていて、昔の古い文庫は探しても見あたらなかった。
おそらく絶版になっていて、みんな探しだしたのではないか。

たぶん近年だったかベストセラーになり、少し市場が動いたような気もする。だが、その新しく出たばかりの文庫本を見ると、ベストセラーに乗じた出版社が前のめりぎみに出した、ような感じではなく、おそらくずっと昔みたいなペースではないものの、途切れることなく書き続け、地味に文庫で出版されていたのだろう。
だが、ひょっとすると、かなり増刷がかかっていたのかもしれない。
わたしがなぜ佐藤愛子に注目したかというと、訳がある。
実は、学生時代買った覚えのある佐藤愛子さんの文庫をうちで探していた。昨今のベストセラーの広告を見て、思い出したのだった。しかし見当たらない。なんとなくBOOK・OFFに売った記憶があり、ないのを承知で探してみたのだった。

佐藤愛子は、むかしもいまとまったく変わらないことを本に書いていた。そのブレなさが、最近人気が出た秘密だと思われる。

こうしてみると、BOOK・OFFの棚は、非常にそういう古本マーケットの現在を反映していて、見方によっては面白い。
ほぼ読んだことのない、また読むことがなさそうな新しい作家の本がほとんどなのだが、なかには、見慣れていた作家の本に高値がついていたりするのは、うれしいものだったりする。
人気というのは不思議なものだ。

ワンオペについて2

前回、ここに「ワンオペ」について、少し書いた。
それからかなり経ってしまったが、なんとなく書き足りないというか、自分が思い間違っていたのでは、と気になっていた。
その間、大寒波が来て連日最低気温がマイナスだったり、冬季オリンピックが始まったりしている。ずいぶんさぼってしまった。

ワンオペについて書いたことを、いま思い出すと、一人で介護や育児をやっている「大変さ」を、誇張しすぎではないか、という風なことを書いたように思う。
だが、我が身を顧みて、わたしの場合は介護なのだが、はっきりいって大変どころか、一人で回すのはメチャメチャ大変である。
これでも毎日ヘルパーさんが少ない日で一人、多い日で四、五人は出入りしていただいているし、日中週4日は半日以上、透析に病院に行ったり、ディサービスに行ったりして、その間は母は家を空けている。
たぶん育児よりは楽なのではないかと思う。うちの母は寝たきりの重度介護なので手がかからない部分もある。
しかしながら、なかなか説明が難しい大変さがある。
ひとつは、他の人に頼む場合の段取りをつけなければならず、これが仕事の時間とかち合うと大変あせる。
これは仕事でもよくあることで、なんでも丸投げははできないので、準備が大切になる。
これに関しては、引き継ぐメンバーが固定し、やり方やノウハウが固まるにつれ、かなり楽になってきた。
もし、なんらかのサービスを継続して何名か依頼でき、細かいことを言わなくても頼めるようにならなければ、やはり一人じゃ到底無理だろうと思われる。

つぎに「ワンオペ」が大変なのは、自分が倒れたら終わる、という危機感である。これは、最初はかなりストレスになった。
いまも時々、誰かがわざとわたしがギブアップするだろうという、意地悪い監視が行われているような気になることがある。

これには、余裕があるうちに、他の手段を考えておき、準備するしかないのだが、ある程度「どうにかなる」と無神経になることも必要かと思われる。

と同時に、どこかで線を引き、自分の人生を大事にするため、自分の趣味や時間を大切にすることだろう。
できる範囲で手抜きしたり、絶対譲れない楽しみを優先するとか、毎日緊張や時間のなさが続くと、自分が参ってしまう。
基本的に、いまの時代、なかなか家族であっても、人になにか頼みづらい時代だと思う。仕事の場でもかなり仕事が集中するところに集中し、残業が日常になる方とそうでない方の差が開きがちではないかと思う。
わたしは、それをひとつの「ワンオペ現象」と思い、仕事の適正な分担が必要だという考えで、前回、ワンオペを放置すべきでない、という意味合いで書いた。
職場と家庭の仕事は微妙に違う部分がある。とはいえ、家庭でも、家事の分担が常識となりつつあるなか、仕事をどう適正に割り振りし、いかに過度の個人負担を解消してゆくかは、重要な課題であると思われる。
これから確実に介護人口は増える。
育児にしろ介護にしろ、「ワンオペ」に陥ってしまうのは、本人の責任ももちろんあるのだが、人生そんなにうまくは運ばない。
助け合える部分は助け、行政も受けれる部分は受け、どうすれば過度の負担をなくせるか、社会全体として考えるべき時代が来ていると思う。

ワンオペについて

年明け早々恥ずかしい話題を昨日書いてしまった。しかしこういうことなら、いくらでも書けてしまうから、困ったものである。
一般には、実質的に、今日からが仕事や学校の新年本番スタートだったはずだ。
近くの中学はなんと始業式が5日金曜にすでにあった。
うちも母が病院の短期stayから金曜に帰ってきたので、そこから新年スタートだった。
が、実質は、土日がヘルパーさん朝昼晩来てくださる日なので、昨日月曜から本格始動という感じだった。
オペレーション・リフト・オフ(発射)!というアナウンスが流れる〜。
しかし成功するかどうかが、スタートにかかっているので、昨日はたしかにしんどかった〜。

最近「ワン・オペ」という悲しい言葉が流行っているが、うちもその部類に入るのかもしれない。
しかし、ある意味ワン・オペしか無理な状況で、そんなこと言っていたら阿呆な気がする。
たぶん、二人でできる環境であるのに、一人だけに負担がかかることをそう言っている、一種の皮肉語なのだろう。
細々とした準備は、どんな仕事にも必要なことで、介護や家事には欠かせない。ヘルパーさんが来てくれる時間はかぎられている以上、それまでにあれこれ準備が必須なのである。
まぁ家事や育児、介護は仕事とは世間では認識されていないから、たとえば介護サービスを利用しているなら、何も家族の負担はなく、それが仕事であるとは思われないかもしれない。
しかし、実質的には、人に頼むときには、段取りよく頼むことが必要になり、そのために準備をかなり要求される。
結局、このような仕事とはいえない仕事の量が、家事や介護は多いのだ。なので、有料サービス以外の家族が負担する部分がブラックになっていくのは必然になる。(そうならないように気を付けなければならない。)

元々、家の仕事、家事や育児は、それ自体、資本主義社会ではブラックにならざるをえない宿命をもっている。労働対価の適用外のカテゴリーだからだ。等価交換の概念が適用できない。

ワンオペが問題化するのも、家事が仕事と認識されなくなったからだろう。

だが近代以前は、家事労働はたぶん命を繋ぐ仕事だったはずだ。いまもその認識が絶えないからこそ、やむをえず誰かがやっているのだろう。

しかし、資本主義が進み、産業従事者が増え、残業なども増え続けると、家事に使える時間やリソースが圧縮され、生産効率が悪いという原因もあり、家事や育児や介護はもっとも陰に押しやられる日々のタスクとなった。

それらはないのが「ベスト」で、業者に委託するか、家庭内の最下層のカーストに任される作業となった。誰もそんなことを進んでやりたがるわけはない。

ネグレクトや虐待はもっと別な心理的な原因があるかもしれないが、ワンオペで育児や介護をやっている人の問題は、社会のそういう見方、日陰の仕事という価値付けが根っこにあるからと思われる。

と同時に、これはオフィスの仕事でも言えることだと思うが、大事に考えるべき問題だと思うのは、簡単な細々した家事に限りなく近い、無数の仕事が日々オフィスでも発生し、たぶん山積みになっていて、誰かがそれをコツコツとこなしていることだ。

どうも前の職場でも、営業的にはあまり重要でないそうした細々した仕事、スタッフのシフト調整や、教室のスケジュール管理、手配、変更のお知らせ、補講の調整、連絡、教室確保、掲示他他、限りなく細かなしかしなくてはならない仕事が目白押しだった。

しかし、そうした業務は、陰で発生し、処理され、日向にでることはない。生産性を重視する職場であるほど、こうした業務は評価されにくい。評価の基準がなく、資本主義の原則である等価交換のカテゴリーからはみ出してしまうからだ。

問題は、そういった理由から、どうもそうした作業も、だいたい組織の最下層の人たちに集中的に担われ、ここにもワンオペで破裂寸前の状態が看過されていないかということ。

いわゆるOLとか非正規の方が残業を重ね報われない日々を送っていることが想像される。

それ事態がはらむ問題は、結局、そういうことができる人が割に合わない立場を余儀なくされ、どんどん先細りしてきたのではないかということである。たぶん、家事とか育児と似た細かいオフィスの作業というのを、社会全体が避け続けた結果、できる人が減ってきているのではと危惧される。現にわたしが働いていた職場でも、その傾向は如実にあった。
どこの組織でも、かなり以前から派遣に頼っていたそういう仕事を、たぶん近い将来はAIかなにかに任せるのかもしれないが、社員に教育して、質を保ったかたちで継続させるノウハウをなくしているような気がする。

それはたぶん家庭でも同じで、子供は家事労働から限りなく遠ざかってしまい、料理が趣味とかいう特別なスーパーチャイルド以外、まったく家事にノータッチになっていて、大人になってもできる人が少なくなってきたのかと思われる。
できる人は結果として、組織でなにも評価されない仕事を、できるがために自分がやるしかなくなる。
家庭でも同じで、家事ができる人が、その仕事を集中的に担わされる。たとえば親世代が延々と子供の家庭の雑事を手伝わされるなどである。

それがワンオペの実態なのかもしれない。

誰でもできるとずっと思われ、長い間そのことが当たり前のように続いてきた家事や育児の労働に、もし専門性(スペシャリティ)が確立され、タダでなく、有料化職業化されていくことも考えられる。それが、国家のサービスに入ることもあるかもしれないが、考えるまでもなく、その前に国家財政は破綻するだろう。

その前に、家庭でも組織でも、雑事も日々の仕事であり、生産効率のカテゴリー以外の業務がこの世には存在し、われわれが人間として自分のことは自分でするのが生きるうえでのルールであることを認識しなおすことが、必須であると思われる。

「年賀状8日からは10円切手貼ってください」って嵐は言ってたかな?

年賀状が年末からずっと心に引っ掛かっていたが、昨日、正確に言うと今朝早朝!(笑)やっと、出せた。
たぶん標題のような事態が今年から始まらなければ、もっと先延ばしにしていたかもしれない、、。恐ろしいことだが、出さずに年を越してしまうと、ダメなのだが、そうなりがちだ。すみません。
10円の効果は意外に大きかったと言える。

実を言うと、年賀状は早めに手に入れていたのに、昨夜になって慌てて、葉書をコピーできる店を探しだした。遅すぎ。
当てにしていた年末利用したネットカフェにはあっさり断られた。「A4しか無理ですね」そう言うと店員は風邪を引いていて、わたしの前で大きな音で鼻をかんでいた。
結局、昔の職場の近くの24hコピー機が使える某K***sまで行かねばならなかった。
そこまで行く気は最初なかった。
しかし締切ギリギリに動いていると、そんなパワーが出てきて、不思議だ。(もっと早く締切設定しろよ。)

ちなみにコンビニのコピー機は手ざしコピー禁止で、葉書はコピーできない。
K***sのコピー機は広告制作もできる複合機で、葉書はもちろん、用紙の厚さもセレクトできる優れもの。
たしかに一枚も紙詰まりなくスムーズだった。さすが餅は餅屋、コピーはコピー屋である。

料金も白黒ならコンビニより安い(ただ消費税がかかる)。

無事はがきの裏面(図柄)をコピーしたあと、宛名は近くのコーヒー店(知る人ぞ知る受験生の友Ve※ch)で閉店までねばり、約半分書いた。
わたしは下手くそのくせに筆字が苦ではないのだ。だが限界はある。いいとこ10枚くらいでやめたくなる。
続きは帰って家で書いた。
遠路帰る途中、書けたぶんを郵便局(区の局だから開いていた)に持っていった。そのとき局の人に確認すると、朝一の回収までにポストに出せば10円切手は要らないと言うことだった。
そのとき窓口に10円切手を買っている人がいた。
えっ、まだ間に合いますよ、と思ったが、普通11時越えたらそうするだろう。
わたしはよほどケチなのか、帰ってから3時までかけて書きあげ、家の近くのポストに投函しに行った。
寒かった。

ケチというより、ここまで来れば、阿呆かもしれない、、。

新年退院の日、流れた今年の二曲

先程、夕方16時頃、短期入院(いわゆるショートステイとは異なる)から退院し、母が帰ってきた。
病院から退院するのはかなり慣れてきて、今回は家族援助のための10日間の入院ということもあり、これといった感慨はない、と思ったが、実際はなにかやはり不思議だが、病院を退院することにまつわる、独特の感慨があった。
これはうちの家族がかなりこれまで病院の入退院を頻繁に行ってきたことと関係があるかもしれない。

母は要介護の最高のステージにあり、透析患者でもあって、週に三回同じ病院に通っているわけなのだが、少しの期間ではあっても、気持ちが場所に残るのかもしれない。
ただ、昨年秋までは半年以上の入院生活を過ごした場所でもあるし、そのときの思いがよみがえるのかもしれない。

家のなかを、母がいない間に少しは片付けようと思ったが、年末年始仕事が続き、できなかったのは痛かった。ただ、冬場はなかなか身体が動かない。おまけに今年は、天気も不安定で、昼間から暗く、冴えない気分が続く。
こんなとき、ぴったりな音楽を聴いた。
病院へ退院手続きにいくとき、車のなかでラジオを聴いていてかかったのだ。
ひとつは、紅白で見てなかったが「素晴らしいライブだった」と番組で紹介されていた、エレファントかしましの「今宵の月のように」。
もうひとつは、かなり前から知る人ぞ知る名曲の誉れ高いナンバー、キリンジの「エイリアンズ」。

この二曲が、新年から慌ただしく立ち上がる町の喧騒のなかを、ただよい流れていった。

正月ものぐさストーブ料理 鍋焼きうどん

新年あけましておめでとうございます

昨年から、透析患者の家族向けの介護サービスなのだが、母が年末年始、病院で短期滞在しているので、気が抜けてしまい、いつもよりさらに、家事がお留守になり、ひどいありさまであります。

しかも年始に夜勤が続いたせいで、3が日、朝帰って昼まで寝てしまい、完全な寝正月になっています。。
さっきも、何を食べるか悩みながら、母の見舞いから帰り道、ローソンに立ち寄り、さすがに弁当も飽きたので、うどんの生麺を買ってきた。
お雑煮を作るためいちおう水と昆布を入れておいていた鍋を、帰ってからストーブの上に載せ、冷蔵庫のなかの残り物、あげともやし、手羽先鶏肉、しょうゆとみりんを入れ、そのうどん麺を入れて煮込んだ。といっても、ストーブの火かげんだから、グツグツじゃない軽い煮方である。
あとおもちとねぎを入れ、少し正月めいた感じをかもした。お雑煮は作らなかったが、うどんはなかなか美味しかった。
ちなみに年始にうどんを食べる地域もあるそうだ。
昨日から寒波が来て寒くなりました。わたしのすんでいる近辺は昨日朝からうっすら雪が積もり、昨夜もちらちら降っていた。
今朝は凍てついたのではないだろうか。
今日から町は普段通り店があいていたが、昨日3日から開いているところもあった。
近頃は正月は2日までなのだろう。
わたしは大晦日、1日2日仕事だったせいで、なにか実感がなかったが、近頃は年々、季節感や行事の重みが薄れ、年の変わるめりはりがなくなってきた気がする。
それは悪いことじゃないし、職場の方もいままで休みと限らなかったので、とりたてて感じなくなってしまった。
しかしながら、年のはじめには、やはり何とかいいスタートを切りたいと思う。そのためにも、年賀状を早めに出したかったのだが、、つい忙しさにかまけ、まだこれからなのです。

(今年もよろしくお願いします。)