ワンオペについて

年明け早々恥ずかしい話題を昨日書いてしまった。しかしこういうことなら、いくらでも書けてしまうから、困ったものである。
一般には、実質的に、今日からが仕事や学校の新年本番スタートだったはずだ。
近くの中学はなんと始業式が5日金曜にすでにあった。
うちも母が病院の短期stayから金曜に帰ってきたので、そこから新年スタートだった。
が、実質は、土日がヘルパーさん朝昼晩来てくださる日なので、昨日月曜から本格始動という感じだった。
オペレーション・リフト・オフ(発射)!というアナウンスが流れる〜。
しかし成功するかどうかが、スタートにかかっているので、昨日はたしかにしんどかった〜。

最近「ワン・オペ」という悲しい言葉が流行っているが、うちもその部類に入るのかもしれない。
しかし、ある意味ワン・オペしか無理な状況で、そんなこと言っていたら阿呆な気がする。
たぶん、二人でできる環境であるのに、一人だけに負担がかかることをそう言っている、一種の皮肉語なのだろう。
細々とした準備は、どんな仕事にも必要なことで、介護や家事には欠かせない。ヘルパーさんが来てくれる時間はかぎられている以上、それまでにあれこれ準備が必須なのである。
まぁ家事や育児、介護は仕事とは世間では認識されていないから、たとえば介護サービスを利用しているなら、何も家族の負担はなく、それが仕事であるとは思われないかもしれない。
しかし、実質的には、人に頼むときには、段取りよく頼むことが必要になり、そのために準備をかなり要求される。
結局、このような仕事とはいえない仕事の量が、家事や介護は多いのだ。なので、有料サービス以外の家族が負担する部分がブラックになっていくのは必然になる。(そうならないように気を付けなければならない。)

元々、家の仕事、家事や育児は、それ自体、資本主義社会ではブラックにならざるをえない宿命をもっている。労働対価の適用外のカテゴリーだからだ。等価交換の概念が適用できない。

ワンオペが問題化するのも、家事が仕事と認識されなくなったからだろう。

だが近代以前は、家事労働はたぶん命を繋ぐ仕事だったはずだ。いまもその認識が絶えないからこそ、やむをえず誰かがやっているのだろう。

しかし、資本主義が進み、産業従事者が増え、残業なども増え続けると、家事に使える時間やリソースが圧縮され、生産効率が悪いという原因もあり、家事や育児や介護はもっとも陰に押しやられる日々のタスクとなった。

それらはないのが「ベスト」で、業者に委託するか、家庭内の最下層のカーストに任される作業となった。誰もそんなことを進んでやりたがるわけはない。

ネグレクトや虐待はもっと別な心理的な原因があるかもしれないが、ワンオペで育児や介護をやっている人の問題は、社会のそういう見方、日陰の仕事という価値付けが根っこにあるからと思われる。

と同時に、これはオフィスの仕事でも言えることだと思うが、大事に考えるべき問題だと思うのは、簡単な細々した家事に限りなく近い、無数の仕事が日々オフィスでも発生し、たぶん山積みになっていて、誰かがそれをコツコツとこなしていることだ。

どうも前の職場でも、営業的にはあまり重要でないそうした細々した仕事、スタッフのシフト調整や、教室のスケジュール管理、手配、変更のお知らせ、補講の調整、連絡、教室確保、掲示他他、限りなく細かなしかしなくてはならない仕事が目白押しだった。

しかし、そうした業務は、陰で発生し、処理され、日向にでることはない。生産性を重視する職場であるほど、こうした業務は評価されにくい。評価の基準がなく、資本主義の原則である等価交換のカテゴリーからはみ出してしまうからだ。

問題は、そういった理由から、どうもそうした作業も、だいたい組織の最下層の人たちに集中的に担われ、ここにもワンオペで破裂寸前の状態が看過されていないかということ。

いわゆるOLとか非正規の方が残業を重ね報われない日々を送っていることが想像される。

それ事態がはらむ問題は、結局、そういうことができる人が割に合わない立場を余儀なくされ、どんどん先細りしてきたのではないかということである。たぶん、家事とか育児と似た細かいオフィスの作業というのを、社会全体が避け続けた結果、できる人が減ってきているのではと危惧される。現にわたしが働いていた職場でも、その傾向は如実にあった。
どこの組織でも、かなり以前から派遣に頼っていたそういう仕事を、たぶん近い将来はAIかなにかに任せるのかもしれないが、社員に教育して、質を保ったかたちで継続させるノウハウをなくしているような気がする。

それはたぶん家庭でも同じで、子供は家事労働から限りなく遠ざかってしまい、料理が趣味とかいう特別なスーパーチャイルド以外、まったく家事にノータッチになっていて、大人になってもできる人が少なくなってきたのかと思われる。
できる人は結果として、組織でなにも評価されない仕事を、できるがために自分がやるしかなくなる。
家庭でも同じで、家事ができる人が、その仕事を集中的に担わされる。たとえば親世代が延々と子供の家庭の雑事を手伝わされるなどである。

それがワンオペの実態なのかもしれない。

誰でもできるとずっと思われ、長い間そのことが当たり前のように続いてきた家事や育児の労働に、もし専門性(スペシャリティ)が確立され、タダでなく、有料化職業化されていくことも考えられる。それが、国家のサービスに入ることもあるかもしれないが、考えるまでもなく、その前に国家財政は破綻するだろう。

その前に、家庭でも組織でも、雑事も日々の仕事であり、生産効率のカテゴリー以外の業務がこの世には存在し、われわれが人間として自分のことは自分でするのが生きるうえでのルールであることを認識しなおすことが、必須であると思われる。