2012年2月12日(日)の一日 遅刻についてと森毅著『学校とテスト』

日頃、ここには日記らしい日記を(時々は書くが、、)書いていないのではあるが、もう昨日になってしまった12日のことを書いてみたい。

昨日は、月一度定期的にある箕面市のとある山の整備の仕事(といってもボランティアだが)の日であった。ところが、前日まで行こうかどうしようか決断できず、そのまま寝てしまった。この活動は当日参加も受容れてくれるため、あえて予約もいらない。朝起きた時点でも、正直迷っていた。

先月は、実は遅刻してしまった。というのも、ここの活動に一緒に参加しているわたしの知人のKさんが、先月は別の用事で欠席され、普段自家用車で行かれるKさんに同乗させてもらえなかったからだ。
Kさんのせいではないのに、そう書くと、関係があるかのようだが、この日わかったのは、帰りは、バスで来た人でも、車で来た方に同乗させてもらう人もいるのだが、本来、自力で来なければならないのだ。だから、わたしがKさんのご厚意に甘えていたに過ぎない。

さて、しかし今月も、わたしは連絡を前日入れていないのにもかかわらず、Kさんをすこしあてにしながら、とりあえずギリギリ間に合うかどうかの段階で、京都駅まで地下鉄で。そして、駅でKさんに連絡すべく、JRの改札のところにある発車時刻の出る電光パネルを見ながら、携帯をとったが、ちょうどKさんとのいつもの約束時間にギリギリ間に合うだろう新快速が、見る間にパラパラと電光板から姿を消してしまった。

さすがに、電車に乗り遅れた手前、今から電車が行ってしまったので、次の電車で遅れるが、行きます、と(電話すれば少々待ってくださるにしても)いいだせず、かけかけた電話を切ってしまった。

実は、なんということか。その失礼な掛けかけの電話に、Kさんがわざわざ掛けなおしてくださっていたのだ。

しかし、阿呆なわたしは、その電話になぜか気づかず、どうすべきか迷って、この時点では、今日は箕面のボランティアは休んで、別なことをしよう、いろいろやることもあるし、みたいな気分で、しかしなんとなく駅はさりがたく、とりあえず、広島にいる大学のときの友達に、郵便を送りに中央郵便局へ寄った後、地下街をうろうろしていた。

どこか喫茶店に入ろうかと思ったが、あろうことか、京都駅地下のイノダコーヒーは、行列ができるほどの超満員で驚いた。まだ8時30分なのに。みんな休みの日はボルテージが違う。いつものけだるさが皆無だった。

そして、地下街の休憩コーナー的なところをやっと見つけ、やっと携帯の着信に気づいた。Kさんは、先月自分が用事で休まれ、車で送れず申し訳ない、今日はどうしますかと留守電で尋ねてくれてくださった。なんという親切さか。

すぐ電話したが、このときは、もう休もうという気分だったので、「寝坊したので今日は休みます」と少し事実と違う理由をつけて、今起きた的なニュアンスで、断ってしまった。

しかし言ってしまってから、急に先月、山の中に生えていた竹薮の竹を切り、何本かそのまま途中で始末せず帰ってきてしまったことを思い出した。わたしは、先週、テレビでドラマを見ていた。そこで、バックに竹薮だ、と思う景色を見て、すこし心が動いたのを覚えていた。どうやら、先月の活動でかなり竹を切ったので、どこかで覚えていたのかもしれない。そう思うと、行かないわけにはいかない、という気持ちになった。

相変わらずの優柔不断さといおうか、思いつき=行動といおうか。。本当に、これが大の大人のやることであろうかとあきれる。いくらなんでもひどすぎる。

しかし、どうもこのボランティアがわたしのようなものにも、こうやって続けられているのは、そこに原因がありそうな気もしている。現に、この箕面の活動は、この団体の活動地はいくつかほかにもあるが、一番参加者が多いのだ。わたしほどひどくはないにせよ、行けたら行く的な自由度が、こうした参加者の多さを招いているのかもしれない(現に遅刻もしながら参加できている。わたしが、京都の北部から来ているせいもあって、もっとはよこいよ、とは決していわれない。ただ、遅刻や、せっかく一緒に行こうと誘ってくださる方への優柔不断さは、失礼でよくはない。大事な用事がないのなら、早く行くのに越したことはない)。

この、なんというか、受容れ態勢のゆるさというか、いい意味での寛容さは、各活動地のリーダーの人間性がでている。この箕面の活動のリーダーは、M野さんという方で、豪放磊落な方である。副業ではあるらしいのだが、山仕事で使うのこぎりや地下足袋の販売事業もされている生粋の森林ボランティアである。

さて、この活動地へ交通機関を使い行く場合は、わたしの場合、阪急の烏丸駅から南茨木駅まで行き、そこから大阪モノレールに乗り換え、千里中央まで向かう。そこから箕面国定公園行きのバスに乗る。途中、かなり山をあがったところに、勝尾寺という禅宗系の名刹があり、そこでバスを降りる。その近くの林道が、大体の活動エリアである(集合地は、勝尾寺の駐車場)。

大阪モノレール南茨木で大阪空港行きに乗ったのが、10時8分だった。家を出たのが、8時前だったので、途中うだうだしたにせよ、2時間近くかかっている。やはり大阪は遠い。ことに、岩倉からは、、。
 
千里中央(センチュウ、というらしい。これは、同じボランティアのAさんからこの日聞いた。)から出るバスは、9時0分(これで行くと、集合時間の9時45分に間に合う)の次は、9時55分(先月はこれで行った)、その次はなんと10時55分だった。しかし、それで行くしかない。現地のこの団体のリーダーY氏には、すでに阪急に乗っているときに、メールですみませんが遅れますと連絡していた。

バスが、来るまでセンチュウのロッテリアでコーヒーと小さいチーズパンみたいなのを頼み飲んだ。そこで、どうも自分がこれまで、「遅刻するなら参加しない」型より、「遅刻はしても参加する」型の人生を歩んできているのを深々と確認した。

どう考えても、「遅刻するなら参加しない」型のほうが、理屈に合っていて合理的、つまり、参加は遅刻が許されない、という厳格な思考のほうが、まっとうで正しいように思える。

わたしも、実際はそう考えて、なるべく遅刻しないようにしていて、現にそうしないと社会生活は送れない。

しかし、はたしてそれは絶対的に正しいだろうか。こうして、遅刻してもかまわないケースを悪用しなければ、そのスタンスのほうが、社会全体の落ちこぼれは、すくなさそうな気がする。つまり、ドロップアウトする人間を少なくできるのではないだろうか。

遅刻しながら、こんな気楽な論を考えているのは、わたしくらいだろうが、みんなが「遅刻は論外」と厳格な組織運営をしすぎると、「遅刻しても参加」型の人は、だんだん生息できず、「遅刻したら参加せず」型か「遅刻は絶対しない」型のどちらか二つだけの社会になってしまう。

現に、傾向としては、昨今、大方の組織はそうなってしまったような気がする。だから、不登校ニートが多く生まれるのではないか。もちろんその理由はむしろもっと大きなものかもしれないが、人間は意外と些細なことで、大きくそれていってしまうものだ。

わたしが「遅刻しても参加」型だから、そういうのではない。むしろ、会社員時代は、遅刻を繰り返すアルバイトがいて、頭を悩ませた。(わたしのいた会社は、圧倒的な「遅刻厳禁」スタンスであった。人間というのは、ダメッというと、そのダメなほうに必ず行ってしまうタイプの人が、時々いる)。

しかも、「遅刻しても参加」型の人は、必ず遅刻するかというとそうでもない。むしろ、「遅刻絶対しない」型になる可能性も高い。

「そんなこといってないで、遅刻しないようにしたら」

そう言うことは、簡単であるが、このことは意外と大切な気がする。

この考えは、ロッテリアでそこまで浮かんできたのではない。むしろ、この後バスに乗って、車中で読んだ森毅先生の本を読んで、思いが強くなった。

朝日選書『学校とテスト』森毅著。森先生は、数年前にお亡くなりになったが、京都大学で長年数学を教えられていた。数学者でありながら、教育や文学について、発言する文章やコメントを数多く発表され、一刀斎、とかいった時代小説みたいな変なあだ名をつけられていた。テレビにも、時々、お出になっていた。

今森先生がおられたら、橋下市長の教育基本条例をどう言うだろうか。おそらく、ファシズムのはしりとして激しく非難しつつも、どこか、基本条例案通っても、気にせずこの手でやりましょうと、教育の本質を型で考えず、具体的な実行で救い上げるプランを提示して見せるのでは、と思う。それにしても、いささか悲観的にならざるをえないだろう。

もともと森先生は、教育の管理化、制度の硬さの限界を知り、それを賢くスマートに回避していくことのなかに、実現可能な実りある教育を見ていた。

教育制度は、実際、森先生が元気なときから、ものすごく管理下、序列化、が進んでいて、京大の生徒も、昔と違って管理されたがっている学生が多いと、よく書かれていた。

わたしたちの大学生だったころの話である。もう30年近く前の話だし、この『学校とテスト』も初版は1977年の本である。

当時は、在籍している大学生が全員教室に来たら、収容できる校舎がない大学が普通であり、森先生も、出席するだけで単位のもらえる授業を「芸がない」といって、酷評していた。「そんなことしても、教室をパンクさせるだけだ」と。

大学というのは、今よりもっと、なんというか、放任だった。よくいえば自主性を育む環境を備えていた。だから、授業には出ないことが普通だった。

それと比べると、いまや大学では、あらゆるサービス(資格試験講座や就職対策のプログラム、はては生協などの食生活を含め)が完備されている。講義をサボることは、かなり少なくなっているようだし、これらのプログラムなどをこなさなければ就職できないような、強迫観念もあるのではないか。(似たことは、しかしわれわれの時代もなくはなかったが。)

いわゆる少子化で、学生を確保するのも大変という大学側の事情もあるだろうが、一般企業は、大企業はともかく、そのようないい環境はないのが普通である。社員食堂など、普通はない。

会社と大学のそうした環境の格差というのも、いまの就職難(ミスマッチ)の隠れた原因ではないか。

この『学校とテスト』は、値札を見るとコミックショックで買った本である。おそらく、今はもうないが、出町のコミックショックで買ったまま、読まずにいた本だ。ちょっと、「学力」について、考えていて、関係ありそうなので、手に取った。森先生は、前からわたしがよく読んでいた方であった。現物?にも、2回ほどお目にかかったことがある。

それにしても、出町のコミックショックは、なかなかいい本がたくさんあり、ここでかなりたくさんわたしは本を買った。ほぼ、毎晩寄っていたくらいだ。なくなったのは、かなり前だが、残念であった。店主らしい、大人しそうなまだ若いスタッフがおられ、その方のセレクトであったのだろうか。(この方は、いまどこにおられるのだろうか。。)

バスは30分ほどで目的の勝尾寺に着いて、活動場所(先月の場所と同じ)まで歩いていくとき、どうもこうして一人ではぐれながら、最終的にみんなと合流する、という場面が子供のときから自分には多いな、という気がした。すでに仕事をしているグループの姿が見え始めた。Yさんが、わたしを見つけ、「いらっしゃい」といってくれ、のこぎりとヘルメットを手渡してくれた。用意してくださっていたらしいが、わたしが、手提げバッグにヘルメットとのこぎりを入れているのを見せたら、山行きの格好とは思えない、「なんや、怪しい人やな」といわれてしまった。たしかに、仕事着は着ていたが、普通のコートを上から着て、おまけにネックを囲う何というか知らないウォーマーで口の部分も覆っていた。
すぐ昼休憩になり、持ってきた弁当を食べた。(これを作っていて、電車に乗り遅れたともいえるが、、弁当はこうしたボランティア作業では結構大事なアイテムである。別に駅で買えばよかったのだが、、)
食べ終わったところで、先に来られていたKさんにご挨拶すると、「もうちょっと早く起きなさいよ」と言われた。
昼からは、例の竹薮の後処理を志願しやらせてもらった。先月と同様、Aさんがそこで作業されていて、やらせてくださいと申し出て、やろうとしたが、あらかたは終わっており、一帯に一定のサイズに切った竹をきれいに積み上げ、木の根っこで動かないように抑えた山がいくつかできていた。先月は、竹が伐られたまま、斜めに斜面に寝ていたので、かなりな変わりようだった。
それでも、まだよくみると倒れたままの竹が谷の底に残っており、それを根っこに近いところで伐り、斜面に引き上げて、枝を落とし、4mくらいの長さで切り、積み上げてある竹に重ねていった。
地面が意外と乾いていたが、ところどころ雪が固まった箇所があり、山の温度が低いことを物語る。実際、作業中はなんともないが、じっとしていると寒いくらいだ。
幸い、時々陽が差し、あたりを照らしてくれていた。晴れ時々曇りといった天候。
竹の整理は、まもなく終わってしまった。しかし、この辺りは針葉樹の植林地で、大きな木が切られたままごろごろと転がっている。
今度は、その放置された倒木を、同じように枝打ち(枝を払う)をして、手ごろな長さ(これも4mくらい)にこま切りにして、転げ落ちないように木の根っこに引っ掛けておく。

どうもこれは、実はプロの樵の方(ここは国有林なのでつまり農林省管轄の営林署の方だが)が伐ったまま放置されている木であるとのこと。いわゆる間伐で、間引かれた木であるのだが、使い道がないため、(それも国有林のためか、、)置きっ放しであるのだった。

このような伐りっ放しの倒木を処理していた日には、いつまでたっても仕事は終わりはしない。もともと間伐をこのフィールドではしているわけだが、こうした後始末の方が、大変なのである。しかし、これが樹を切るよりも、意外と危険なこともあるのは、作業をしていて、気づいた。

土がどうやら水を含んでいて、そこは沢へ大雨のときは水が流れるらしく、大きな岩が上から落ちてきていて、ごろごろしていた。わたしは、そのちょうど岩の下を移動しているとき、そのひとつがグラッと揺らぎ崩れてきて、あわや足に当たるところであった。
半分わたしもその大きな石と一緒に、沢のほうに落ちそうになったが、幸運にも石が砂地を崩しながら、わたしのすぐ横を下に落ちていき、難を逃れた。
山で仕事をしていると、この種の危険さは、どうしてもある。昼休みのとき、Yさんが、危険なところには決して近寄らないでください、と声かけられていたが、そこが危険なことを意識できてなかったのはたしかだ。

次に竹であるが、竹は倒れて傾いているほど、しなったままであるので、あまり節と離れたところで伐ると、みるまに裂けてわれ、上に撥ねてくる。うっかりしていると、顔に当たりかねない。
その動きも予測しなければならないし、やはりヘルメットは必ず着用していないといけない。
注意さえしていれば、怪我をすることはないが、油断は禁物である。これは、前も一度書いたが、身体のなかに、危険を察知する機能があって、それを研ぎ澄ますことが何より必要である。
身体を使った仕事、とくに昔からある農作業や山仕事の本質は、武道とよく似たものがあるのではないだろうか。両方とも、凶器である刃物(手裏剣や刀:鍬や鎌や鋸)を道具として使う。
そして、柳生忍者や宮本武蔵が山中で修行していたのは、おそらく、そうした作業に何かしら武道の本質を見つけていたからに違いない。

さて、作業が終わり、(わたしの場合半日の参加ではあったが)千里中央までKさんの自動車で送っていただいた。本当は、電車賃の面からも、いつもどおりJRの摂津富田駅のほうが、わたしはよかったのだが、ほかにお二人バスで来られた方と同乗することになり、その方々と一緒におろしていただくことにした。

センチュウでは、先月もたしかやっていたが、テントを張って、熊本の郷土の市のようなものをやっていて、ひとつのテントでなにか進呈しているらしく、たくさんのかたが行列を作り並んでいた。テントの裏には、観葉植物らしい鉢植えが並べてあり、どうやらそれをもらおうとしているらしい。
う〜ん、大変だ。(違うかもしれないが)

南茨木までモノレールに乗り、阪急の乗り場へ連絡する通路から「類塾」という大きな看板が見え、パンフレットをもらおうと思い、通路の階段から地上へ降り、その建物に入ると、塾は3階にあるらしく、上がるのもなんなので、あきらめて道路に戻ると、向かい側に「田村書店」という本屋さんがあった。

入り口に「古本祭り」という幟があったので、みていくことにし、通りを渡った。ちょうど、「類塾」の建物から一人、小学生らしい男の子が出てきた。その子は、駅のほうへ向かった。

その古本祭りのワゴンがすごかった。なんと、富岡多恵子の『釈迢空ノート』の岩波現代文庫を見つけた。それに斉藤美奈子の文庫本、『あほらし屋の鐘がなる』『妊娠小説』など過激なタイトルの本が、全部あるかと思われるほどたくさんあった。

なかでも出色だったのは、銀色夏生の『つれづれノート16 決めないことに決めた』であり、これはものすごく分厚い文庫本で、定価は705円だったものを220円で売っていた。
この人の本は、本屋さんでよく見かけていたが、今まで読もうという気になったことはなかった。
しかしながら、内田樹の『疲れすぎて眠れない夜のために』という文庫本の解説で、この方の文章を読み、非常に印象に残る名文を読んだように思い、一冊だけブックオフで写真とポエムが書かれた本を買って、パラパラとみていた。
わたしは、この人のことを男だとばかりなぜだか思っていた。書いている内容がどことなく男っぽかったのだ。(わたしにとっては)
しかし、内田本の解説文を読むと、なんとなく女性っぽかった。しかし、相変わらず、どちらともはっきりしかねる文章であった。
それで、このつれづれノートを立ち読みすると、やはり女性、しかも2人の子供の母親ではないか。
もう少し、研究するために、この本と、富岡多恵子釈迢空ノート』と斉藤美奈子の本も1冊、『文章読本さん江』という本を選び、買った。3冊で1000円かと思ったが、950円だった。
いや〜、こんなこともあるのだ。南茨木経由で帰れてよかった。
ちなみに、銀色夏生は、「なつき」と読むらしい(注:これは誤りでした。「なつを」が正しい読み方です。訂正します)。これを「なつみ」と読む女性を知っているが、「銀色」というネームは、やはり今でもどことなく男性を思わせるのだが。