ミスと日常問題〜「ようこそ先輩」(ETV)『親友とは』カンニング竹山さん

つい気後れして、あとでいいか、とか、べつにたいしたことないからやらなくていいか、とか思ってやらなかったことが、けっこう問題となり、あとに尾を引くことがある。
前の職場でも、お客さんの前で、その場で確認してから答えた方がいいな、と思いながら、まぁいいだろう、と自分の感覚で答えて、あとで調べたら間違っていた、みたいなことはよくあった。
このように、仕事などで間違いなくこなせるときと、間違う、つまり、つい調べるのを邪魔臭く思い、その場の雰囲気で間違ったことを言ってしまうときと、両方のときがあったのはなぜなのか。
最近、あらためて思い出しつつ、考えてみると、ことの発端は、たとえば、朝ごみ出しの日だったのに、今日は少な目だしいいかと思い出さなかったり、皿洗いをせず流しにつけっぱなしで家をでたり、といった日常生活のなかの、ささいな自堕落さ、ズボラさが引き金になっているのではないかと、遅まきながら気がついた。
これはつい最近やった失敗の反省である。
さらに、いざというときに、決断をあいまいにし、決心がつかないことが、もし、自分に多い場合なども、そういう日常生活がどこかきちんとできてないところがあるのではないか、と疑ってみる必要がある、かもしれない。
すこし、風水っぽいが、事実としてあらためて感じる。
ただ、わたしのやることなどはミスしても社会的にたいした影響はないと言える。
しかし、世にあるいわゆる大事故の発端は意外にささいなことが多そうなことは、東日本大震災原発事故をその最大な一例とする二次的な災害を見ても、言えそうだと思う。
そこにあるものはたしかに日常とはかけ離れた規模の、国家的な計画による最先端の科学を駆使したもので、比較しようのない巨大なプロジェクトで、人間的な誤りやささいなミスは寄せ付けない完全さがあるように見える。
しかしながら、歴史的に調査するスパンを200年くらいももてば、十分とはいえないまでも、いくらかはリスクとして予想できた津波を、どういった経緯かわからないが、想定外としてしまうような判断ミスは、情報を自分に都合よく解釈してしまうどこか念入りでない仕事の粗さを思わせ、根っこの部分で、他でも日常に行われていたある種の怠慢やズボラさの結果であるかもしれない。。
立地条件の精査にしてこうだから、ほかにも想定を甘くしていたことは明白で、かつての福島第一原発の作業員がいろんなメディアで、オペレーション上の問題を指摘している。
再稼働した場合、そうした問題が再び発生しないか、逐一、政府もマスコミも追求しなければならないだろう。
今回の失敗をどう活かせるか、様々な意味で様々な範囲や分野で、問われていると思う。

先日、ETVの「ようこそ先輩」という番組で、お笑いコンビのカンニング竹山氏が、出身小学校(たしか大分県だったと記憶するが間違っているかもしれない)で、「親友とはなにか」について授業をしていた。
なかなか考えさせられるいい授業だった。
まず最初に小学生に課題として書かせていた「親友とはなにか」についての作文を紹介していた。
小学生が授業前に考えた「親友」とは、どんなものだったかというと、「自分のためになにかをしてくれる友達」であり、自分に好意を示してくれ、なにか好ましいことをしてくれる存在、というものが多かった。(そう竹山氏は少し嘆かわしく語っていた。)

実際、教室である生徒はこんなことを言っていた。
「ボクの親友は○○くんで、理由はボクのことをいつも考えてくれているからです。でももしケンカしたら、ボクは自分からさきに謝ることができないかもしれません」と(微妙に違っていたかもしれないが、だいたいそんなことを発表していた)。
なかなか正直な発言である。
番組ではそのあと、竹山氏が、小学生たちに、お互い「親友」と自認している、いくつかの親友二人組に、グループ別に、学校の外にでて取材させていた。
地元のお祭りの御輿を毎年担ぎ合う二人の友達は、お互い一番名誉あるポジションを毎年奪い合うライバルである関係を親友と言っていた。
また視覚障害のある方がマラソンをされるときたすきで腕を結び付き添って走る人との関係を親友と呼び、それは付き添って走る健常者にとっても教えられる関係だといっていた。
また、戦場でともに命をかけてささえあった戦友が親友だったと、写真を見せて、亡くなった友のことを語る老人もいて、そういう話を小学生たちがグループに別れ聞き込みし、その後、壁新聞のような紙に取材結果のまとめを書かせ、黒板に貼り、発表していた。

彼らは、確実になにか、「親友」というものの、授業前に自分が抱いていたイメージとは違う、なにか本質的な友達関係のイメージを、取材を通して、それぞれ異なる形ではあるが、共有できていたようだった。

しかし、取材前に教室で小学生が言っていた、「友達にさきに謝れるかどうか自信がない」といったことばは、イタい。
大人になっても、ぜひきみには、その真摯な疑いを持ち続けてほしい。
なぜなら、なかなか、大人でも、それはできないからだよ。
さきに謝れないんだ。
これができたら、たぶん、世界は少し、変わるような気さえ、しないでもないんだ。