『街歩きの記憶』(山本善行)と「失ってしまったもの」と『中国行きのスロウ・ボート』(村上春樹)について〜ブッダ・カフェ第14回に参加して

最近、時折りお邪魔するようになった京都の銀閣寺の近くにある古書店・善行堂さんの店主山本氏は、「書物エッセイスト」として、時々京都新聞夕刊の「現代のことば」というコラムを担当されているようだ。山本さんは、非常に気さくな店主で、店を訪れる方に気軽に声を掛け、話をするお人柄で、人気があるが、実はたくさん古書関係の本も書かれている方である。「古本ソムリエ」の称号もある。
その山本氏が、先日2012年5月25日付のその京都新聞夕刊「現代のことば」に『街歩きの記憶』というエッセイを寄せられていた。(一部引用します)

 去年の話になるが、ある雑誌から、なくなった昔の古本屋について何か書いてもらえませんかと頼まれたことがあった。そのとき私もまた京都で暮らした若いころを思い出した。
 私が京都に住んだのは、大学5回生のときが最初で、やっと首だけが出せる窓しかない薄暗いアパートだった。お金はないが時間はたっぷりとある青春時代だった。
 京一会館という映画館で、小津安二郎を観たり、蝶類図鑑、しあんくれーる、ビッグボーイといったジャズ喫茶にもよく入った。古本屋で買った、リルケの『マルテの手記』をハラハラしながら読んだことも覚えている。ジャズ喫茶のなかで、大きな音のなかで、大山定一の翻訳の素晴らしさをだれかに話したくなり困ったこともあった。
 当時通った古本屋のことも忘れない。丸太町通の一信堂、今出川通の千原書店、修学院の駅前文庫、どの店にも思い出がある。実際よく歩き回ったものだ。河原町の京都書院、駸々堂丸善などといった新刊書店も個性があった。
 昔の方がよかった、昔に戻りたいとは思わないが、でも失ったもののなかに何か大切なものがあったように思う。
山本善行『街歩きの記憶』2012年5月25日京都新聞(夕刊)「現代のことば」より)

ここに書かれた場所、店をいくつか私も記憶している。ばかりか、その「修学院の駅前文庫」には、家が近かったせもあり、ほぼ毎日行って、そこに並んだ、一昔前に出た文庫や雑誌を立読みしたり、一部買ったりしていて、非常に懐かしい。
私も当時大学生で、下宿こそしていなかったが、時間はたっぷりあった。そこで、そうした古書店で、ラインマーカー(当時は赤鉛筆で線が引いてあった)されたり、メモ的な落書きが残っているかつて学生らしき若者に読まれたであろう本を手に取り、読むのがなんとなく、図書館や新刊書店より、しっくりくるのであった。(もちろん新刊書店でも立読みはしたが。)
ところが、そうした古書店さんというのが、やはりここ何十年かでなくなっている。ブックオフが、今は一気にその手の需要を引き受けていそうだが、趣という点では、ここに書かれているジャズ喫茶や古書店には、独特のものがあった。新刊書店も、山本氏が書かれているように、たしかにそれぞれの店が微妙に違ったのである。
ここにあげられた店は、ほとんどいまはない。リバイバル的なムードが、本の周辺の世界に起こりかけているが、山本氏が書かれているように、その種の世界のかなり大きな部分は、失われてしまった。

先日、25日の日曜、定例の「ブッダ・カフェ」に参加した際、ある方が、『東北の震災と想像力』(鷲田清一×赤坂憲雄著・講談社)という本のなかに書かれていた一節、「今回の東日本大震災津波が流し去ったものは、東北の沿岸部にあった近世200年の文化そのものだった」ということばを紹介されていた。
その沿岸部の地層ごと、江戸時代から200年以上もの時間にわたり蓄積されていた、おそらく漁業や船の交易、人々の営みの跡をぬぐって流し去ったのかもしれないのである。
私は、このことばの指す意味が大きすぎて、あまりうまくは想像できないのだが、「復興」と一口に言っても、あまりにも無残な状況を思い描いてしまい、ことばがない。少なくとも、近々といわれる三陸沖の二つの大きな災害、明治二十九年の津波、昭和八年の津波、いずれのときもかろうじて残っていたものさえ、今回の津波は洗い去ったのだろうか。
それほど大きい津波の記録は、1000年以上前でないと遡れないという説もある。

そのことから、少し「伝承」ということの話をした。

「ここには津波が来るかもしれないので、家を建てては駄目だ」ということで、空き地が広がっていた場所に、事情を知らない新しい人は家を建てて住んでいた。そういうことも考えられる。
原発を作らないと若い人が出て行く、そういう風に追い詰められ、そういう土地にまさに途方もない施設が国家予算をふんだんに使い建てられてしまった。
その本の「文化ごと流された」話に、別の意味から関わるが、われわれの子供時代に比べると、文化の「伝承」というものは、ほんとうに心もとない。まず、われわれそのものに(そうでない方ももちろんおられようが)伝えるべき文化そのものの知識がないし、そういうことを社会全体が忘れてしまったかに思えなくもない。
たとえば、このブッダカフェの主催者、扉野さんが僧職であることから、「お葬式」の話になったが、昔は、家族親戚総出でかなりしきたりに基づいた式典を、やるのが普通であり、それは単にお金をかけてしきたりどおりにやるということでなく、その家が代々受継いできた死者の送り方というのが頑としてあり、それが守られていたような気がする。
そして、大人は、それをことあるごとに、子供に伝えようとしていた。
それは、大きな式典だけでなく、事細かな日常の営みにいろいろとやはり決まりがあったわけである。
たとえば、ある方は、おばあさんから近くにある史跡「一条戻り橋」の歴史のいわれを、子供のころからよく聞かされていた、という思い出を話されていた。
そういうものは、当節の都市化による住宅事情(団地、マンション化、核家族化)や親(転勤、単身赴任、労働時間の長時間化)や子供たち(進学塾、テレビ、パソコン、携帯電話など)がおかれている環境のせいもあり、いつからか、自分も疎んじただけでなく、社会全体が疎んじ省みなくなった。そして、ことそのものが起こると、専門の業者が請け負い、そうした家ごとの言い伝えの部分はどんどん少なくなり、専門家にいっさいがっさい任すというやり方が、一般的になってきたように思われる。
いまは、大規模な葬祭場みたいなところで、そうしたセレモニーが開催される。そのほうが何かと効率がよく、手際よくスムーズにことが運ぶのである。
しかし、ここにもなにか「大切なものが失われている」という思いがどうしてもしてしまう。
そういう話を、つづけてした。
だから、たしかにいろいろなものを津波は流し去ってしまったのではあるが、その前に東北以外のところも含め、日本中、かなりの部分で「文化」は既に流されていたのではないか。
そういうものは、はたして「再生」できるのだろうか。もしできるとしたら、どういう方法で。

週刊文春の古い号が職場においてあった。職場のお客さんが捨てていったものだ。古新聞と一緒に出すためにおいてあった。
2012年5月31日号で、『ゆとりモンスター新人の「ここが許せない!」』という記事があった。

 ここ数年の新入社員について、「何か以前と違うなぁ…」と感じる先輩社員も多いのではないか。「会社にかかってきた電話を取らない」とか、「新人歓迎会なのに、理由もなしに断る」とか。新人なら当然やるべきとされていたことを指示されないとやらない。あるいは、指示しても出来ない。そのくせ自己主張が強くて、妙に自信満々。そんな新入社員が増えている。実はこれ、「ゆとり世代」に多く見られる特徴なのだ。
 だが、この程度ならまだマシな方かもしれない。いま、新人研修や仕事の現場では、「ゆとりモンスター」と呼ばれる理解不能な新人が出現している。しかも、一部上場企業や、世界的に名の知れた超有名企業、就職人気ランキングの常連企業などの話である。

と、かなり一方的な書き方で、新人研修で上手く答えれなかった新人が、『状況設定が悪いから分からない』『模範とされる解答が曖昧だと思います』『私たちはまだ働いたことがありません。だから答えを知っているはずがない。それを教えるのが講師の役割ではないでしょうか』などと、「講師に詰め寄った」といった話。
また、研修中に机の下でお菓子を食べていたのを注意すると、「『そもそも飲食禁止おかしいのではないでしょうか。お腹がすいていたら、集中できないですから』と主張しだした。」といった話が紹介されていた。
ゆとり教育世代」の新卒入社は2008年が最初だったらしい。

 「今年の新入社員は、それから五年目。導入当初の教育現場での混乱も治まり、『自主性を重んじる』『個性を発揮させる』といった教育方針が徹底されている世代です。彼らが中学一年になった2002年には完全週休二日が導入されています」(文科省担当記者)<2012.5.31 週刊文春『ゆとりモンスター新人の「ここが許せない!」』より>

まとめると、「自宅と会社の区別がない」「不満をすぐにツィートする」「言われたことしかやらない」といった、おそらく全体の一部であろう社会常識皆無に近い症例を例を挙げて紹介されていた。これらは、おそらく、そんなに遠くない昔でも、会社へ入る前に、ほぼ全員クリアしていた問題であろうが、今はどうやら、そういう人が増えているらしい。
ただ、「不満をすぐにツィートする」といったところは、以前なら発生しなかった新たな問題である。
私たちの世代も、「新人類」といって、このように叩かれたものだったが、記事の中で気になったのはこの部分だ。

子どもの頃から携帯電話やインターネットに慣れ親しんだゆとり世代ならではのトラブルも多発している。「研修がつまらないとか、すぐにツイートする。日報を書かせるとまるでブログのような内容になっている。報告書に絵文字、顔文字を使う。電話の受け応えも出来ないですね。三十代以上の世代は、子どものころ、誰かの家に電話したら必ず親が出た。そこで必死に話し方を学んだが、彼らは中学生の頃には携帯があった。目上の人と電話で話した経験がないのです」(食品会社人事担当者)
<2012.5.31 週刊文春『ゆとりモンスター新人の「ここが許せない!」』より>

ここを読んだとき、ふいに昔のあの黒電話の受話器の重たい感触、ガールフレンドに電話するときわざわざ公衆電話ボックスに入って、緊張しながら10円玉を入れていた思い出がよみがえった。
われわれは、ある意味いい時代に育った。この記事を見ても、『ゆとり世代』がかわいそうとしか思えない。携帯やネットは、大人になってからでいいのだ。(心からそう思う。)
しかし、もはや、「あの時代」はほんとうに遠くなってしまった。
当り前だ。村上春樹が、すでに30年も前に、予言的に書いていたではないか。(1980年4月に発表された『中国行きのスロウ・ボート』より引用する。)

 僕は東京の街を見ながら、中国のことを思う。
 僕はそのようにして沢山の中国人に会った。そして僕は数多くの中国に関する本を読んだ。「史記」から「中国の赤い星」まで。僕は中国についてもっと多くのことを知りたかったのだ。それでもその中国は、僕のためだけの中国でしかない。それは僕にしか読み取れない中国である。僕にしかメッセージを送らない中国である。地球儀の上の黄色く塗られた中国とは違う、もうひとつの中国である。それはひとつの仮説であり、ひとつの暫定である。ある意味ではそれは中国という言葉によって切り取られた僕自身である。

 …東京---そしてある日、山手線の車輌の中でこの東京という街さえもが突然そのリアリティーを失いはじめる。その風景は窓の外で唐突に崩壊を始める。僕は切符を握りしめながらその光景をじっと見ている。東京の街に僕の中国が灰のように降りかかり、この街を決定的に浸食していく。それは次々に失われていく。そう、ここは僕の場所でもないのだ。そのようにして僕らの言葉は失われ、僕らの抱いた夢はいつか霞み消えていく。あの永遠に続くようにも思えた退屈なアドレセンスが人生の何処かのポイントで突然消え失せてしまったように。
 …それでも僕はかつての忠実な外野手としてのささやかな誇りをトランクの底につめ、港の石段に腰を下ろし、空白の水平線上にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。
 
 …友よ、中国はあまりに遠い。

村上春樹著『中国行きのスロウ・ボート』「象の消滅村上春樹短編選集1980-1991」・新潮社刊 p.319-20)

この村上さんの語る「中国」は、わたしにとっての「黒電話」みたいなもので、その感触は、もう伝えるべくもなく失われてしまったのだ。でも、思い出すことは何とか今ならできる。そういうことが、たくさんあるのは、いかんともしがたい。