祇園祭夜店 宇崎竜童氏語る「最近の歌(JPOP)にないもの」 Zardの歌

かなり蒸し暑くなってきた。三日間夏日が続き、天気もいいから、暑い。
最近、朝起きるのがつらく、なさけない。
寝苦しさと夜勤でリズムを崩したせいなのか。
母のディサービスのお迎えや、宅配の配達、郵便局の営業マン等、来訪時玄関ベルに気づかず、電話(イエ電)でやっと目が覚めて、「いまお宅の前におります」と言われるようなことが続いた。
昼時間に身体を戻すのは、まだまだコツがつかめてないのだろうか。。
例年、職場の他部署が祇園祭宵山に夜店を出しているので、手伝いに駆り出される。
今年は夜店は、一昨日と昨日の二日間のみ。
わたしは昨日のみ参加した。
今年から祇園祭を前(さき)祭と後祭に分け、歩行者天国と夜店は、その前祭(さきまつり)の前二日間のみとなった。
山鉾巡行は例年の17日が、前祭の巡行を行い、24日に後祭の巡行になるという。
昨夜の宵山はその二日しかない最終日ということもあり、昨年より多かったようだ。
昨年終了時に余っていた風船やビールがちょうど終了間際に品切になるという盛況ぶりだった。
巡行がどうなるかは、昨日街頭でもらったガイドによると以下であった。

前祭:7/17 午前9時出発 長刀鉾から船鉾まで23の山鉾が例年通りのコースを巡行。
後祭:7/24 前祭とは逆の動きで大船鉾他10基の山鉾が巡行。 

今回の改革、京都市や祭りの主催者側の思惑は、いろいろあるようだが、前祭と後祭を分けて開催していた49年前までのやり方を新しい世代に伝えたい、という山鉾町の代表者のコメントを新聞で読んだ。
市民や観光客その他の反応はどうなるであろうか。

とりあえず、京都のあの蒸し暑さが到来した。今年は、去年みたいに梅雨明けも早まらず、5月6月の猛暑は比較的なく、暦通り夏がはじまったようだ。

夏がはじまると、もう終わりを思ってしまう。
「うれひ」は「憂い」とも「愁い」とも書く。たしかに、夏が往くほどさびしいことは、この世にはないかもしれない、という気がして、「愁い」は納得できる字だ。
急に、こんなことを書き出すのは、つい最近あるテレビ番組に、ある新人らしきシンガーソングライターがゲストで出ていて、その歌手の歌について、宇崎竜童がコメントをしていたのを見た。
それを今日仕事しながら、思い出した。
いまの仕事はガードマンじゃないが、外で立っている時間が長く、風が吹いていたりすると、つい物思いにふけってしまう。
あれこれ考えているなかに、その番組で聞いた話をふと思い出した。
宇崎竜童は、その若手のアーチストの歌に、最近のJPOPにはなくなってしまった「うれい」がある、というのだった。
う〜ん、鋭い!たしかに、このことばは、いまの流行りの音楽の本質を言い当てているし、昔流行った歌に何があったのか、それが過剰だったかもしれないことも含め、深く考えさせられるコメントであった。
わたしはそのシンガーのことはまったく知らず、いまもそれが誰だったか正確に書くことができない。
しかし、いつから、宇崎竜童氏の言うような「うれい」が日本の歌謡曲やJPOPから消えてしまった(とわたしも思う)かについては、仕事をしながら考え込んでしまった。
そもそも「うれい」とは何かを語るのは、かなり難しい。
「悲しみ」とか「せつなさ」とか「さびしさ」だとか「いとしさ」だとか。
いろいろ、言い換えてみて、そのどれもあてはまるし、どれにもあてはまらない。
それは、ことばにはその旧仮名で書く「うれひ」が一番ぴったりする感情のひとつであろう。
そしてまたそれを世代を越え伝え育むのは、文学や音楽等アートしかできないことかもしれない、という気がする。

うれひを感じる歌、わたしの小学生時代に遡れば、小椋圭の歌の節は、それにぴったりする。
「揺れるまなざし」「シクラメンのかおり」「さらば青春」
サザンにも「わたしはピアノ」「いとしのエリー」には、海外のロックにはない「うれい」があった。

いま、こうしてはじめて意識的に、あ、この人はそうだったのか!と意外にその特徴がまさにそう言えるアーチストがいる。
Zardだ。
彼女の歌う歌には、すべてそういえば、悲しいとかせつないとかいとしいとかさびしいとかが一体化した、微妙な感覚が深く感じられる。
それは「うれひ」と呼ぶのが一番シックリくるではないか!
「揺れる思い」には、その小椋圭の名曲「揺れるまなざし」と共通したワードも偶然だろうが入っている。
おそらく、一時期のZardの爆発的な人気と、ご本人の悲しみに満ちた出来事には、日本のミュージックビジネスのかなり象徴的な変化を、もしかすると暗示しているような気がしてならない。
宇崎氏が語るような、歌が「うれい」をなくしてしまった、その消失点は、そこらあたりにあるのかもしれない。

その「うれい」が、もしまた、新しいミュージシャンにより復活する日が訪れているなら、忘れかけられているZardの歌も再評価され、研究されるとともに、ご本人のご冥福もあらためて祈られ、鎮魂される契機となるのではないか。そのことを願ってやまない。
ちなみに「うれい」とほぼ似た感覚をあらわす、もっと古いことばがある。
「かなし」だ。
これまた、海の青を思わせるZardの歌に共通する、ぴったりなことばではなかろうか。