2014.8.10ラジオ深夜便ゲスト・片岡義男 8.11NHK-FM 山口百恵特集(ゲスト 宇崎竜童)

台風11号はやっと日本列島から離れたようだが、今年はひどかったですね。
関西は前回の12号のときは難を免れたが、今回は、昨年9月に大変なことになった桂川は、また氾濫の危機でした。
一昨日こちらでは9日の夜半から10日夕方にかけてが台風の直撃タイムであった。
わたしの友人が、昨日夜、心配してメールをくれたくらい京都は雨量の発表数値が異常値だったらしい。
とくに10日午後12時から午後1時までの間に500ミリを観測したとか。
しかしわたしの家の近くでそこまでひどい降りは感じなかった。ただずっと雨風は強く、たしか15時くらいにやっと風が止み、16時くらいに雨がやんだ。
これは前日台風がひどくなる前に、職場で同僚のAさんが「4時くらいには上がるみたいですよ」と言っていた予報の内容とぴったり一致した。
職場では前夜9日にあったらしき震度3くらいの地震が話題になっていた。わたしは気づかなかった。
台風も地震も、あまりひどく思わなかったのは、風邪を引いていて、自分の身体のことがそれより気掛かりであったからだという気がする。
風邪は7日あたりから喉が痛くなり、熱が出始め、8日には咳鼻水がひどく、夜熱が38度を越えていた。
9日朝少しましになりかけ、10日には熱も下がり、昨日11日に咳やタンもとれてきた。
結構急激に進行し台風とともに去っていった気がする。熱が上がってきたときは往生した。なかなか寝られなかった。暑いのか寒いのかよくわからなく、いろんな考えに夢みたいにうなされた。
いまはすっかり忘れてしまったが。

一昨日夜勤の帰りに車のラジオからインタビューっぽいやりとりが流れてきた。
〜日系二世?のお父さん、滋賀県の旧制女学校出身のお母さん、「でも見事に関西弁の痕跡がないでしょ」といったレスポンス〜もしや、これは?と思いながら聴きはじめた。
懐かしの片岡義男の声だった。
「懐かしの」というのは、わたしは、高校から大学にかけよくFMラジオで片岡義男が深夜に番組をひとつ持っていて、時々聴いていたからだ。

気まぐれ飛行船。

あの頃の声と、厳密にいうと、やはり違っていたが、耳が慣れてくると口調はあのときとよく一致したまぎれもない片岡義男だった。

この間『book5』というリトルプレスの片岡さんの特集を買ったばかりだったので、嘘だろう、とビックリしながら?聴いていた。そうだ、片岡さんはまだ元気なので、なんでも新作の短編集を出されたか出されるかといったことも、番組で紹介された。
いゃあ、たしか70歳を越えられているはずである。

わたしが、しかし片岡義男を、最初に意識したのは、このラジオから聴こえてくる「声」だったな、ということを、再認識した出来事だった。
話し方や日本語の節回しというか、口調が当時から独特で、一昨日聴いた久しぶりの声にも同じ型があった。いや、昔よりその型が増幅されているようにも感じた。
その結果、昔よりいっそう、アメリカ人が日本語を話しているような感じを受けた。
その辺り、ブレなさが彼が評価されているひとつの点だと思われる。
作家になったきっかけや、サラリーマンを三ヶ月で辞められたこと、その理由、創作の秘密みたいな話など色々聴いた。
ちょうどその片岡特集を読んでいるところなので、興味の度合いが増幅していった。
また詳しく、今度書いてみたい。
いや〜しかし、こういうことって、ないようであるんですね。誰かのことを考えていたら、向こうから歩いてくるのが見えたみたいな。ユングシンクロニシティとかいうんでしたっけ。

さらに、これは昨夜、同じく夜勤へ今度は出勤時。
FMを聴いていると、この間、ちょっと紹介した「日本の歌にウレイがなくなった」という名言をはかれた宇崎竜童が出てきた。
そして、アナウンサーが聞き手になり、宇崎さんが作曲した山口百恵の楽曲について尋ね、宇崎氏がそれに答え、その歌をかけるという番組構成であった。
お盆なので特番枠なのだ。
いゃあこれも耳をそばだてて聴いていました。

なんと宇崎竜童氏は、「横須賀ストーリー」を皮切りに、約4年間という短い期間だったが、山口百恵の楽曲をかなりの数(たしか460曲とか言っていた記憶があるが正確ではない→正しくは68曲でした。コメントにてご指摘がありました。深謝いたします。)作ったらしい。
たぶん作詞は阿木曜子。

それで、感じたが、先日宇崎氏が言われていた「うれい」の原型が山口百恵にあることを、あらためて感じざるを得なかった。
この件も、またあらためて考えてみたいが、番組で聴いた面白い話をひとつ。

横須賀ストーリー」これは、当初はアルバムに入れる曲として書いたものだった。しかし、アルバムからははずれた。
当時のアイドル路線からは激しく逸脱するイメージの歌なので、やはりダメだったか、と嘆いていると、レコード会社から「シングル曲として発表する」と打診を受けた。
それが大ヒットした。
当時、阿木曜子は新聞に挟んである広告のうら(いまも時たま入っているが、当時の広告はほとんど片側一面印刷だった)に書いて歌詞を作っていた。
宇崎は阿木曜子がそこに「これっきり これっきり もう これっきりですか」と書いたものを見て、すぐにあのメロディが浮かんだという。
「もうあの歌詞からはあの節しか思い浮かばない。広告のうらの方からわき上がってみえてきたんだね」と語っていた。
〜急な 坂道駆けのぼったら
いまも海は見えるでしょうか ここは横須賀
(「横須賀ストーリー」)