小林秀雄「Xへの手紙・私小説論」(新潮文庫)

小林秀雄は、その昔大学受験の現国問題には必ず出題されるとされ、わたしの通っていた大学受験予備校のそばの本屋には『考えるヒント』の文庫版が平積にされていた。が、30年近い月日が流れ、いまやその名を本屋で見かけることはなくなった。
その文章は、難解中の難解とされ、いまでは「悪文」の見本として学校でもあまり推奨はされなくなっていると見える。(実は、小林秀雄の亜流の評論が悪文なだけだったのだが)
そうなってみると、かつてのあの文学の神様的な崇拝ぶりは、なんだったのか、と考えるが、数年前に脳科学者の茂木健一郎が、『脳と仮想』でこの小林秀雄のCDになった講演を取り上げ、再評価されるきっかけとなったようだ。(この『脳と仮想』は、第4回小林秀雄賞の受賞作となる。ちなみに、この前に、『三島由紀夫とは何者だったか』で、同じ賞を受けた橋本治は、この小林秀雄賞を受賞したからには、という律儀な動機から、その後『小林秀雄の恵み』という小林秀雄論を発表している。)
茂木先生は、みずからの脳科学の研究のテーマである「心脳問題」が、非常にパッシブ(情熱的)に小林の講演で話されている様子を、その著書の中でかなり中心的に紹介していた。
小林秀雄の講演のCDは、新潮社から少なくない巻数のものが刊行されており、その落語的な話術と内容の面白さで人気がある。(もしかするといまや本より売れているかもしれない)
数年前に未発表の講演が見つかったと、文芸誌「新潮」で一部をCDの付録としてつけた特集号で発表した。(このことをわたしは新聞の囲み記事で知り、近くの本屋で予約して入手し、小林秀雄の肉声をはじめて聞いた。まったく文章からはイメージできない意外な声であった。)
つい最近、古書店善行堂の店主のブログにこの特集号が紹介されていた。(ただ、すぐに売り切れてしまったようです、、、。)
2011-02-19 - 古本ソムリエの日記
さて、今回読んでいる(読み直している)本は、小林秀雄が、泣く子も黙る教祖的文化人(坂口安吾は小林のことを「教祖の文学者」と呼んだ)として有名になりそんな講演をするようになる以前、いまからかれこれ70年以上前、戦前に文芸雑誌『改造』(その名もかなり時代がかった、つまりマルクス主義全盛期だった)の懸賞論文に『様々なる意匠』を応募、次席で入選し、批評家としてデビューを果たしてから、この本のタイトルである『私小説論』で、日本を代表する文芸評論家として、不動の地位を築くまでの、初期の評論と、無名のころ同人誌に発表された習作の小説(小林は、批評を書く前は、志賀直哉ランボーを尊敬する小説家志望の文学青年だった)を含めた評論以外の作品のアンソロジーである。
いまさらそんなものを読んでどうなるのか。それはわからないし、うたた寝に最適な本であるとはまったくいえない。ただ、最近ある知り合いが、「J−POPとロックの境界線はどこにあるのかな〜」といった自問自答の発言をしているのを聞いて、そこから、「(純)文学と大衆小説の違いはどこなんだろう?」という、疑問に発展し、芥川賞直木賞に本質的な違いがあるのか?みたいなことをあらためて考えた。
そこで、ぱらぱらとこの本をめくっていると、『私小説論』の中にこのような文章があったのだった。

「芸術が真の意味で、別の人生の『創造』だとは、どうしても信じられない。そんな一時代前の、文学青年の誇張的至上感は、どうしても持てない。そして只私に取っては、芸術はたかがその人人の踏んで来た、一人生の『再現』としか考えられない(略)」
「そう云う意味から、私はこの頃ある講演会で、こう云う暴言すら吐いた。トルストイの『戦争と平和』も、ドストイエフスキイの『罪と罰』も、フローベールの『ボバリー夫人』も、高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎないと。結局、作り物であり、読み物であると」
 これは、久米正雄氏が、大正十四年に書いた時評からの引用である。僕はこの久米氏の意見が卓見だと思ったから引用したのではない。しかしこの一文は見様によってはまことに興味あるものである。というのは、これは久米氏一個の意見ではなく、恐らく当時多数の文人達が、抱いていたというよりは寧ろ胸中奥深くかくしていた半ば無意識な確信を端的に語っているものと見られるからだ。私小説論とは当時の言わば純粋小説論だったのである。(略)
フランスでも自然主義小説が爛熟期に達した時に、私小説の運動があらわれた。パレスがそうであり、つづきジイドもプルウストもそうである。彼等が各自遂にいかなる頂に達したとしても、その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧の為に形式化した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼等がこの仕事の為に、「私」を研究して誤らなかったのは、彼等の「私」がその時既に充分に社会化した「私」であったからである。
新潮文庫『Xへの手紙・私小説論』p.113-5 小林秀雄私小説論」昭和10年発表)


この部分は、「私小説論」のプロローグといえる文章である。このあと、小林は明治期に一世を風靡した日本の「自然主義文学」が、「私小説」とならねばならなかった理由と、その結果陥った私小説作家たちの低迷と行き詰まり、自分たちの実人生を小説の題材とする限界(平たく言えば、小説家として生活が安定すれば、めしの種である小説の題材そのものを失うという矛盾)、の理由を、そうした明治の私小説家達の「自然主義」が、西洋の「自然主義」の「思想」抜きでのテクニカルな輸入に原因があると、明快に指摘する。
(だから、漱石も鴎外も、明治期の文学のメインストリームだった自然主義には、批判的な距離をとっていた。)
大正期の作家たち、白樺派谷崎潤一郎佐藤春夫といったその後日本を代表するとされる作家たちは、それら「自然主義」には批判的な主張と作風で自らの地位を築いたが、小林は、それらの作家たちも、自分の生活上の体験から、独創的で個性ある表現の達成を得たが、近代小説的な思想性が見られない点を指摘する。
つまり、日本の社会全体が西洋のように「思想」としての「自然主義」が重圧になるほど成熟していない、つまり「社会化された『私』」がない、なかで自然主義文学が生まれた状況と、その後の「私小説」の動向を解析している。
そこで言えることは、私小説を書くにしろ、反抗するにせよ、共通の土台になる「社会化された『私』」の不在の上での作品であり、様々な個性の高度な実りを得たが、結果、近代小説が「通俗的にみえる」ほどの驚くべき精密な作品の洗練をもたらし、私小説作家においては、おのおのの「『私』の純化」に向かったという。
そこで、最初の久米正雄氏の言葉の引用にあったが、私小説論が、「純粋小説論」だという、話になるのである。

小林は、このあと、それらの文学の「洗練」を一向に省みず、蹴散らしてしまう、マルクス主義文学の登場を紹介し、その新しい運動が、はじめて日本に社会思想的な普遍性を、文学に与えた事情を語る。

 マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった。輸入されたものは文学的技法ではなく、社会的思想であったという事は、言ってみれば当たり前の事の様だが、作家の個人的技法のうちに解消し難い絶対的な普遍的な姿で、思想というものが文壇に輸入されたという事は、わが国近代小説が遭遇した新事件だったのであって、この事件の新しさということを置いて、つづいて起こった文学界の混乱を説明し難いのである。(同上「私小説論」p.125)

この事情は、戦後の第一次戦後派と呼ばれる文学運動が、マルキシズムを掲げて政治的小説を書いた事情と似ているかもしれない。
それらの、政治的小説が、社会主義思想の衰退とともに消えてしまっている今、その影響力や人気等の記憶も、ほとんど失われている現在、それらが、「駆逐」したかに見える、「私小説」や谷崎、佐藤春夫などの作品のほうが、いまも読まれているという現状をどう説明すべきなのだろうか。

このあと、小林は横光利一が、当時発表したらしき「純粋小説論」を、本家のフランスのノーベル賞作家ジイドの「純粋小説」の思想と比べて論じている。それは、戦後のヌーボロマンや現代小説につながる文学理論に発展していくのであろう。

話を前に戻すと、さて、昔から日本には、そうやっていろんなジャンルで「純粋」と「通俗」を分けようとする傾向があったようである。そして、芸術とは、もちろん「純粋」と分類される作品に冠せられる称号であり、「通俗」的なものは、非芸術としてみなされ、蔑まれてきた傾向が見受けられる。
この起源が、文学の運動にあったのではないか、というのが、小林秀雄の昔の評論を読んでの仮説である。
もちろん、そのような論議は、日本以外の諸国でもあるのかもしれない。
ただ、日本であるように、通俗小説とか、J−POPといった、どこか小ばかにしたようなジャンル分けが、アメリカやヨーロッパにあるようには思えない。(知っているわけではないので、おおっぴらには言えない)
しかし、日本においては、たとえば、前に紹介したポピュラー音楽についても、通俗的なJ-POPと、そうでないロックを分けようとしてしまうのだ。音楽の分類として、あきらかにエイトビートでスリーコードであっても、「違いがわかる耳」を、多くの人が持っている。
少なくとも、そういう傾向が強いといえる。
その違いがあることは明らかだが、歴然と示せるわけでない。ただ、その起源が、もしかすると、「純粋小説論争」にあり、その指標が、「純度」にあるのは、その文学理論の応用なのでないだろうか、と思ったのである。

ちなみに、小林秀雄は、マルキシズム文学の運動を批判する立場にいた。それは、マルクス理論を否定するのではなく、政治と文学の複雑な関係について、あまりにも楽観的な考えが、マルキシズム文学者の作品の土台にあったからだといえる。しかし、この「私小説論」においては、はじめて文芸に与えたその思想的力を正しく評価している。
問題は、その「思想」、つまり人間に対するイデオロギーの支配の方にあった。
彼は、そこで、この論の後、この思想と人間の問題を限りなく深くかつ性急な課題として小説にしたドストエフスキーを、仕事の中心としていく。

しかし、上に取り上げた「私小説論」において、西洋のリアリズム小説を生んだ思想である「自然主義」を語った箇所
「つまり十九世紀自然主義思想の重圧の為に形式化した人間性を再建しようとする焦燥」
は、後年、彼がテーマとして、いろんな講演で言及する「近代科学の方法論」と芸術家や文学者の対立的立場を、少しにおわせている。
それが、後年70年以上の歳月を経て、茂木健一郎の『脳と仮想』において、21世紀の科学文明爛熟期のまっただ中で、リバイバルされるとは、小林秀雄も思ってもいなかったであろう。