勉強会案内付記2・「科学的」ということ〜小林秀雄のベルグソン念力の話

勉強会前日で、付記を書いている。気が急いていて、ちゃんと書けるか不安だが、足りない部分は勉強会で補足したい。

前回紹介した鶴見俊輔さんの文章に、「国家予算のついたビッグ科学(サイエンス)は…」というフレーズがあったのを記憶している。

いまオリジナルの記事が手元にないので、確認できないが、たしかその文章で鶴見さんは「原発」を「原爆」の延長線上のものとしてとらえていた。

そして、この二つの日本の歴史的事件にからむものとして、「国家主導のビッグサイエンス」と、表現されていた。

そのサイエンスに、対置させていたのが「身ぶり手ぶり」だったのは、確かだと思われる。

「身ぶり手ぶり」は、科学以前、つまり近代以前の社会が持っていた身体であり、それが震災後復活したのを、鶴見さんは気付いた。
わたしは、いまの危機を考えるうえで、このような視点、つまり科学(サイエンス)の外から、を意識することが第一ではないかと思った。

わたしが「科学」でまず思い出すのは、前にも書いたが、小林秀雄がある講演で、哲学者のベルグソンが念力をどう考えていたかを話したものだ。

もう一度ザクッと書くと、ある講演でベルグソンが語った講演録を若い頃小林は本で読み、それを思い出して、自分の講演会でとりあげた話である。

ベルグソンがあるパーティかなにかで、同じテーブルになったお互い顔見知りの医学者とある婦人が話しているのを聞いたという話。
それは夢の話で、いわゆる正夢の話だった。
その婦人は、第二次世界対戦で夫が戦地で戦死するとき、ほぼ同じ時間に、その夫が死んで、死ぬ直前夫が見たのとまったく同じ状況、数人の兵士が夫を取り囲み介抱しているところをはっきり夢に見た、そういう話をその医学者にしていた。

ベルグソンは近くでその話をいわば盗み聞きしていた。

するとその著名な医学者はこう答えた。

「奥さん、あなたのことは昔からよく知っているし、わたしもその話は信じたい。あなたは嘘は言っていないのをわたしは信じる。
「しかしながら、わたしはこう考える。つまり人間にはたしかにそういう夢の正しいものを視ることがある。けれど、その正しい夢の数よりはるかに多い数のまちがった夢を視るでしょう?
「その間違った夢はいったいどうするんです?」
と医学者がこう夫人に言った。

すると、同じテーブルにいた若い女性がこう言ったという。

「先生の言っていることはわたしは間違っていると思います…。先生は、論理的には正しいことをおっしゃっておられます。だけどわたしは間違っていると思います」

ベルグソンは、その娘がただしいと思った、と講演で言ったという。

この話は、今考えると、科学者が使う「反証性」という方法、つまりある仮説があるとして、99%の実験でそれが証明されても、残りの1%の実験で違う結果が出たら、その仮説は却下される、その方法の正しさを疑わない科学者の典型的な間違い方でないかと思う。

この医学者は、つまり、あなたのことは信じたいが、その話は反証があり普遍的には正しいと認められない。なのでわたしはその話を信じられない、と言っているのである。

これはおかしくはないだろうか?

「それは科学者というものがいかに自分の科学の方法論にとらわれているかを物語るものだ」と、ベルグソンはそれに続け語っていたらしく、そういう話を小林秀雄がしたのだ。

科学はいわゆる普遍的な真理を追求する学問だ。

だからといって、個々の真実が「普遍的に正しい」とは言えないため、間違っていると、言えるだろうか。

それは科学の「なか」で、考えるからそうなるのではないか。

「方法」の正しさが常に正しい結論を導くと言えるのか。

小林秀雄は、そう問いかけている。