村上春樹「螢・納屋を焼く・その他の短編」(新潮文庫 昭和62年初版)

先日茂木健一郎の『脳と仮想』についてこのブログで書いたが、そこにブログでは書けなかったが、印象的なものに蛍の話があった。虫そのものの蛍でなく、日本人が「蛍」という存在に仮託した「仮想」を、茂木健一郎は取り上げていた。その際、ある一例として、小林秀雄の『感想』という文章(ベルグソンを論じ、未完に終わったため、小林秀雄が実は公表しなかった論文)の冒頭に書かれたあるエピソードをあげていた。(『脳と仮想』には、小林秀雄の話が多い)
 その話は、ご存知の方も多いだろうが、母親を亡くした直後の小林秀雄の実体験を小林本人が書いているもので、ある日、線香が切れたので、買いに行こうとして玄関を出たとき、蛍が飛んでいた。小林は、それを死んだ「おっかさんだ」と思った、という話である。*1
 

 茂木健一郎は、こう書いている。(少し長くなるが、引用する。)

・・・一体客観的世界に、「蛍」という実在が存在するのか?そんなものは存在しない。物質として存在するのは、点滅する先端を持ち、二つの開閉する硬質の覆(おお)いが付属した三センチくらいの奇妙な「何か」である。その「何か」が暗闇を光りながら飛ぶ。暗闇の光を「蛍」だと認識するのは、人間側の勝手な思いこみに過ぎない。「蛍」とは、客観的な現実ではなく一つの生成された仮想なのである。だからこそ、生成の問題から意識に迫ったベルグソンを論ずるに当たって、小林は蛍のエピソードを持ち出したのだ。

 私たちの認識のプロセスそのものが、一般的に現実と仮想との出会いである。脳は、様々な「仮想」とのマッチングを通して、周囲の「現実」を認識する。顔を顔と見るのは、そこに現実に顔があるからだと思うかもしれない。では、フルーツを組み合わせて顔をつくるマニエリスム時代のイタリアの画家、アルチンボルドの絵はどうか?アルチンボルドの絵に見る顔が仮想ならば全く同じように、鏡に見る自分の顔も仮想である。脳の認識のメカニズムとしては、一つながりだ。もし、小林が見た「おつかさんの魂」が仮想ならば、全く同じ程度に、「蛍」という表彰

も仮想だ。空間を移動する物理的な光という「現実」を、「蛍」と見るか、「おつかさん」とみるか。いずれの認識も、現実と仮想がマッチングされるプロセスだという点では変わりがない。

 脳の中に用意された仮想の世界の奥深さによって、現実を認識するコンテクストの豊かさが決まる。蛍をおっかさんと見るからこそ小林秀雄なのである。(・略・)

 人間の精神の歴史は、仮想の世界の拡大の過程、別の言い方をすれば、「仮想の系譜」においてとらえられる。五歳の女の子が世界のどこにも現実としては存在しないサンタクロースのことを想うのは、仮想の系譜に連なることである。小林秀雄が蛍におっかさんを見るのも、和泉式部以来の日本の「蛍」にまつわる仮想の系譜の中に位置づけられることである。

  人間は、現実にないものを見ることによって、現実をより豊かなコンテクストの下で見ることができるようになった。次第に豊かな仮想のコンテクストが積み重ねられる過程で、言語が誕生した。

 (『脳と仮想』茂木健一郎著 新潮文庫 p.39-40)

この村上春樹の『螢・納屋を焼く・その他の短編』という短編集が刊行された1984年、わたしは大学二回生であった。当時、村上春樹をわたしは熱心に読んだほうではなかったが、周りには『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』という「鼠三部作」をすべて読んでいた村上ファンが多かった。

 ところが、村上春樹が「唐突に」出した、安西水丸によるイラストが表紙と題字を飾ったこのハードカバーの単行本(いまの新潮文庫と表紙は同じ)は、ある意味衝撃的で、村上ファンの間では微妙な違和を持って受け取られていたようだった。「村上春樹もフツーの作家になったな」と、仲のいい友人は(少し周囲を意識してか)言っていたのを覚えている。

 表紙で言えば、それまでの村上本は、すべて佐々木マキのポップなイラストが表紙だった。その絵は、村上の作品世界にはうってつけのイラストであったので、それ以外の絵が表紙になることは、ファンの間では意外だったろう、、。(わたしは、「佐々木マキ」は女性だと信じていた。ところが、つい数年前、新聞で男性であることを知り、びっくりした。。。)

 「螢」?

 と、みんな思ったはずだ。それは、「鼠三部作」と呼ばれるそれまでの村上作品とはどうもそぐわないタイトルであり、テーマだった。

 ただ、村上春樹にとっては、のちに大ベストセラーとなった『ノルウェイの森』に、この『螢』が、そっくりそのまま導入部の章として「転載」されているのを見ても、この短編集は、かなり意識してスタイルを変えたものだったに違いない。ちなみに、この短編集には、同じく『ノルウェイの森』の主人公たちの学生時代をスケッチしたような短編、『めくらやなぎと眠る女』が収録されてもいる。

 学生時代の友達とは逆に、わたしは、サラリーマンになってから、何年か全く小説や詩を読まない日々が続いたあと、ある日ふと村上春樹の本を読み出した。それ以来、ほぼ彼の作品だけはよく読んだ。この短編集も、そうして読んだのだった。

 そして、わたしも、この本が出た当時のわたしの友人たちと同様、なぜ村上春樹がこの短い物語で、「螢」を出してきたのか本質的によく理解できなかった。それは、この『螢』そのものを長編化させたといえる、『ノルウェイの森』という小説でも同じである。

 しかし、それからかなり年月を経て、ある日、わたしは、ある方のブログで高野悦子の『二十歳の原点』の再版が出たことを知った。http://gakegake.blog.eonet.jp/default/2009/06/そのブログの文章は、春の大学生の気分を的確にとらえたかなりいい文章であった。その中に、銀閣寺から南禅寺まで続く哲学の道で蛍が出る、ということと、そのなぜか今になって出版された再版の『二十歳の原点』に、あのサトエリ

女優の佐藤江梨子)が帯(「やっぱり好きなんだと思う。自分が空っぽになるくらい泣いたから」というものだった)を書いているという話題を盛り込んで、学生運動の嵐にもまれ、自死を選んでしまった、この京都の女学生の日記のなかの印象的な詩を引用していた。

 そこで、唐突に、なぜ村上春樹が、『螢』で「螢」を出してきたのか、おぼろげではあるが、腑に落ちるような気がした。どうも、『螢』および『ノルウェイの森』のヒロインの「直子」は、わたしにとっては、高野悦子とダブルのである。そして、それは、なぜ『ノルウェイの森』に、「すべてのFETE(祝祭)のために」という扉書きが選択されたのかも、説明してくれる気がする。

 もちろん、村上春樹にとって、また、その世代の人たちにとっての「FETE(祝祭)」とは、あの大江健三郎のかつてよく書いた「政治的季節」にほかならないだろう。しかし、村上のこの短編集では、その学生運動のことは片鱗も見せない。まだ、「鼠三部作」とよばれるデビュー当時の作品では、それは一種空虚な、スラップスティックといえるエピソードとして頻出していたのに。(ただ、『ノルウェイの森』には、それらしき時代状況が背景として描かれており、なんとなく三島由紀夫を思わせなくもない人物が、主人公の住む右翼の親玉が作ったと噂される大学寮(この短編でもでてくる)の先輩として出てきたりする。)

 村上春樹の鮮烈といえるデピューを、わたしはリアルタイムで知っているわけではない。しかし、高橋源一郎が、いつか書いていた体験を思い出す。それは、ある日『群像』を立ち読みしていて、その1979年度の新人賞の作品であった『風の歌を聴け』を読んだとき、「わたしたちの体験を書く人がやっとあらわれた・・」という感慨ひとしおであったというものだった。「わたしたちの体験」とは、その「祝祭」であろう。 ただ、その「祝祭」を、そのままに書いた小説は、山ほどあった。高橋が、それらにうんざりしていたことは、明白である。ただ、村上春樹の文章にはそれはなかった、というのだ。それは、村上春樹ほどそれまでの既存の小説作品から異質の文体とテーマを持った作家は、いなかったし、そのような手法でしか表現できないことを、「祝祭」がはらんでいたこと、そして、村上同様それを書こうとしていたおなじ作家の卵として、高橋は同類を見つけた、そういうことだったのではないか。(内田樹が、「地獄の釜の蓋が開きかけた」と表現している1968年から約10年が経過していた。)

 いまや村上春樹は、ノーベル賞候補に毎年なるほど、全世界で翻訳されて、アメリカでもかなり以前から読まれ、直近では中国や韓国でも、かつて『ノルウェイの森』が出たときの日本のようなブームが続いているらしいが、それは、その文体がそもそもはじめから「翻訳を前提として」書かれたかのような、日本語離れした、日本語であったことも、大きな原因かもしれない。

 しかしながら、この『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収められた短編は、それまでの「鼠三部作」と呼ばれる『ピンボール』や『羊』と同じ作家とは一見思えない文章で書かれている。

その事情について、その高橋源一郎は、別の場所で非常に巧みな表現をしていた。村上春樹には、「村上Aと村上Bがいる」というのである。

 つまり、『ピンボール』や『羊』を書いたのは、翻訳体で、やたら無意味なこと(たとえば、この小説は何年何月何日からはじまり、何年何月何日に終わるなどといった)を書いて、都会的な乾いた喪失感を描く村上Aであり、方や『ノルウェイの森』やこの短編集を書いたのは、リアリズムの書き手の村上Bであるというのだ。そして、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、その村上Aと村上Bが交互に異質の文体でパラレルに二つの物語を綴っているというのだ。高橋によれば、そのAとBが『海辺のカフカ』あたりで、融合しているという。(これは、たしかマガジンハウスの『ブルータス』に高橋源一郎が寄せた記事に載っていた。それは、『1Q84』が発表される前か直後だった。高橋の言う、「村上Aと村上Bの融合」は、今回『1Q84』において、ほぼ完全に達成されたかに見える。。。)

 しかし、それは「文体」だけの問題ではない。村上春樹は「デタッチメント」の作家と呼ばれていた。それは、さりげない出来事、バーでのしゃれた会話、ビーチボーイズの音楽など、佐々木マキのイラストさながらの、現実から遠いアメリカ的な風俗や風景をのみ描いていたこと。かたや、土俗的といえる日本的な家族、人間関係を決して描かないことを、評論家はそう名付けた。

 高橋の言う、「村上A」によるこれらデビュー当時の作品では、たしかに「僕」の家族関係は、詳しく語られず、(「僕」の友人「鼠」の父親との確執と、主人公「僕」と妻の不和はでてくる)、主人公「僕」は、自閉的ともいえ、複雑にレトリカルで、冷笑的な心象を語る。そして、他者との関わりを避け、どうしようもない現実に無力感を感じ、かたや、決して固有名を明かさない、妙に記号化した名前を持つ登場人物および猫(「イワシ」と名付けられた猫がいる)があらわれ、小指のない女、かつて砂浜だったコンクリートで固められた海岸、家出する妻など、喪失感や虚無を描いていた。これらは、翻訳小説のようなハードボイルドな文体が生んだ世界といえる。

 
 では、「村上B」のほうはどうか。この短編集『螢』において、わたしの学生の頃の友人たちが感じたそれまでの村上春樹とは違うという「違和」は、つまり書き手が唐突に変ったための違和であった。これは、村上自身が、この作品を長編化した作品『ノルウェイの森』について、「(単行本の帯が)『100%の恋愛小説です』となっているのは、当初は『100%のリアリズム小説です』にするつもりだったんです。」と語っていることからも、明らかなことである。

 たしかに『螢』に収められた短編は、寓話的な『踊る小人』と『三つのドイツ幻想』と銘打たれたショートショート的な作品以外は、リアリズム小説といえるであろう。

 では、なぜ村上春樹高橋源一郎のいうところの村上B)は、リアリズムの手法を唐突に採用したのだろうか。『ノルウェイの森』はともかく、村上春樹のその後の小説が、すべてリアリズムであるとは言いがたく、あきらかにリアリズムとは違う作風の作品がやはりおおい。今でも川本三郎など評論家は、村上春樹をあくまでリアリズムとは違う手法と思想を持った小説家としており、村上作品のなかで、ことさらそれを区別するのは、あまり有益な議論ではないかもしれない。
 
 しかし、『螢』の中の、印象的なつぎのような文章は、あきらかに「リアリズム小説」と言っていいものだろう。

  死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

  言葉にしてしまうと嫌になってしまうくらい平凡だ。まったくの一般論だ。しかし僕はその時それをことばとしてではなくひとつの空気として身のうちに感じたのだ。文鎮の中にもビリヤード台に並んだ四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸い込みながら生きてきたのだ。

  僕はそれまで死というものを完全に他者から分離した独立存在として捉えていた。つまり「死はいつか確実に我々を捉える。しかし逆に言えば、死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられはしないのだ」と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死はあちら側にある。
 
  しかし僕の友だちが死んでしまったあの夜を境として、僕にはもうそのように単純に死を捉えることはできなくなった。死は生の対極存在ではない。死は既に僕の中にあるのだ。そして僕にはそれを忘れ去ることなんてできないのだ。何故ならあの十七歳の五月のよるに僕の友人を捉えた死は、その夜僕をもまた捉えていたのだ。
  (『螢・納屋を焼く・その他の短編村上春樹著 新潮文庫 p.29-30)

わたしは、この文章を書こうとして、似たようなフレーズがあったような気がして、ある日本を代表する小説家の小説をパラパラと見ていたら、はたしてこのような文章を見つけた。

傍の小鞠程の石を取り上げ、それを投げてやった。自分は別にヤモリ(旧漢字だが変換できないのでカナで代替)を狙わなかった。狙ってもとても当たらない程、狙って投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考えなかった。石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時にヤモリは四寸程横へ跳んだように見えた。・・・ヤモリは力なく前へのめって了った。尾は全く石についた。もう動かない。ヤモリは死んで了った。自分は飛んだ事をしたと思った。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了ったのは自分に妙な嫌な気をさした。素(もと)より自分の仕た事ではあったが、如何にも偶然だった。ヤモリにとっては全く不意な死であった。
  ・・・ヤモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持ちになって、漸く足元の見える路を温泉旅館の方に帰って来た。遠く町端(はず)れの灯が見え出した。死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下に入って了ったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体を塵芥(ごみ)と一緒に海岸へでも打ちあげられている事だろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。然し実際の喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。もうかなり暗かった。
  (「城の崎にて」『小僧の神様/城の崎にて』志賀直哉著 新潮文庫 p.30-31)

「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。」志賀直哉が、現代にいれば、この文章を『螢』でのようにゴシックの太文字でと指定したかもしれない。

 志賀直哉の代表作である『城の崎にて』は、大正6年4月に雑誌『白樺』に発表された。この作品は、志賀直哉が交通事故(市電との接触)で死に掛けた直後、城の崎で静養中のことを書いた典型的なリアリズムの私小説である。ちなみに、日本では、このブログでとりあげた小林秀雄の『私小説論』にあるとおり、リアリズム小説=私小説であることが多い。

 これほど、似た文章(ただ対象が友だちとヤモリでは少し異なるにしろ)が、ほぼ70年近い時を経て、繰り返されるとは、志賀直哉も思わなかったろう。  

 村上春樹は当時のインタビュー記事などに「日本の小説は読んだことがない」とよく語っていた。しかし、ここであきらかに、彼はかつて自分から忌み遠ざけていた「(日本)文学」と出会っていると言っていいだろう。そして、「僕」が、友だちの死(この友だちは「僕」とビリヤードをやって遊んだ夜、突如として自殺してしまう)に直面し、「死」に捉えられたように、村上春樹は「文学」に捉えられたのではないか。

 ここに、なぜ村上が、急にリアリズムの手法を自作に取り入れたのかを説明できるものがあるように感じる。しかし、この『螢』には、肝心のもうひとつのテーマ、単行本の帯にも書かれた「100%の恋愛」がある。直子という、その死んだ友だちの恋人と「僕」は、その事件後約1年たって(友だちの葬式の三ヵ月後に一度会ったと書かれているが、そこで別れて以来)ばったり出会う。

 彼女と会ったのは半年ぶりだった。半年のあいだに彼女は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていた。それでいて骨ばったという印象はまるでなかった。彼女はそれまでに僕が考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれについて何かを言おうとしたが、どんな風に言えばいいのかわからなかったのでやめた。
(『螢・納屋を焼く・その他の短編村上春樹著 新潮文庫 p.21)


 直子は、実はそれまでの村上作品にもなじみの女性だった。それも、あえてその片鱗だけを見せて、前景から消えてしまう謎の存在だった。主人公と深い関わりは類推されるが、それと説明されない。だから、正面からは書かれず、暗示的な文章で綴られ、書きあぐんでいるかのようにも見えた。しかしながら、「直子」のみが、村上の「鼠三部作」中で、固有名を持つのである。それは、なんとなく、アニメ映画に実写の画像が差し挟まれるような感覚だと、言っていいかもしれない。

 それを考えると、直子は、村上Aと村上Bを行き来する女性、と言えるかもしれない。これに遠い関連として、批評家の加藤典洋が、『ノルウェイの森』の主人公についてこう言っているのは、興味深い。

ノルウェイの森』において、直子の世界を「死の世界」、緑の世界を「生の世界」というように考えてみるなら、そこでの「僕」は、「死を含む生」として緑の世界、あの「眼前の現実」に生き、また、生者として直子の世界(死の世界)に赴く両世界往還者として現れてくる。」
(『日本風景論』(「まさか」と「やれやれ」)池田典洋著 講談社文芸文庫 p.44)

 
 ところで、一人の作家が、異質な作品を書くというのでなく、このようなまったく異質な文体を持つとはどういうことだろうか。エッセイと小説を書き分けるといったことは、先日亡くなった北杜夫が精力的に行ったが、それとは全く違う。演劇と小説、推理小説と純文学など、違うジャンルの作品を書くということでもない。

 ついでに言えば、村上春樹が、リアリズム風の小説を書いたのは、彼の作品をよく読むと、じつは『螢』がはじめてではない。『中国行きのスロウ・ボート』に収められた短編も、おそらくリアリズム風の書き方が、されている。とくに、短編集のタイトルとなった「中国行きのスロウ・ボート」は、リアリズム色の濃い短編である。そこには、中国人が出てくるのだが、おそらくそれと深い関係があるように感じる。


 文学の作家が二つの文体を持つとは、二つの人格を持つと言うことなのかもしれない。それは、果たして許されるのだろうか。

 この頃の村上作品は、やはりその「二人」の書き手にいわば分裂していて、高橋の言うように、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、その分裂の画期的な「小説化」と言えるだろう。それは、当時の村上春樹の苦肉の策というか、「窮余の一策」(小林秀雄)であったのかもしれない。

 また、先にあげた加藤典洋がいう、「生と死の世界の往還者」の側面がまさにその『世界の終わり・・・』の二人の書き手の世界にはある。(そのことは加藤もこの文章で触れている) 
  
 このあたりの事情について、批評家の柄谷行人が、かつて『1973年のピンボール』について、村上春樹を批判したことを、2000年に発行された『ユリイカ 総特集 村上春樹を読む』で書いている方がいた。この特集は、村上春樹阪神大震災のあと5年経ち、「地震のあとで」と題された連作短編(のちに単行本化の際、このタイトルは、短編中の一編のタイトル『神の子供たちはみな踊る』に改められた)を文芸誌に発表したのをとりあげ、当時の論者の村上論を集めたものだ。

 柄谷行人はかつて村上春樹を批判してその作品、とくに『1973年のピンボール』を「ロマンティック・アイロニー」と評した(「村上春樹の『風景』」−『終焉をめぐって』[1990]所収)。ロマンティック・アイロニーとは一例が日本浪漫派の保田與重郎において顕著であるような「経験的な自己を冷やかに眺める超越的自己(意識)である」。柄谷によれば、保田のロマンティック・アイロニーは明治期の国木田独歩にすでにあったもので、この超越的自己意識の下では「歴史」が超えられてしまい、「歴史の終焉」したところに「風景」があらわれる。
 村上が描くのもこの「風景」だが(・・・略・・・)それは一般に考えられるような「自然」ではなく、我々の「意志に従属する」「人工的なもの」である、とされる。・・・柄谷の批判に戻ると、『ノルウェイの森』では村上はアイロニーの外見さえ棄て、単に「ロマンス(愛と死をみつめて)』を書いた、とされる。これを換言すれば、村上はアイロニーの頂点において真面目になったということだ。然しフロイトによれば、「戯れの反対は真面目ではない。現実だ」。「この「現実」とは」と柄谷は続ける、「いうまでもなく、「歴史」を意味する」。むろん村上は『神の子どもたちはみな踊る』で歴史と出会っているのである。阪神大震災地下鉄サリン事件が村上にとって「超越論的自己(意識)」によって冷やかに眺められる「風景」でないことは言うまでもないだろう。」
 (「村上作品の最近の黙示録的語調について」鈴村和成:著 ユリイカ 「特集 村上春樹を読む」2000年 p.55-6)

おそらくこの文章では、何を柄谷が語り、この鈴村氏が何を書いているのか、区別がつきにくいに違いないが、語られていることは重要だ。ここで、その原典の柄谷行人のその文章を引用してみる。

国木田独歩がロマン派であるのは、風景を描いたり自然のなかに投入したりするからではなく、そのこと自体をイロニーの意識においてなすからである。ロマン派的イロニーといえば、誰でも保田與重郎を想起するだろう。しかし、明治期のロマン派について論じた保田自身も気づいていないが、独歩のなかにすでにそれがあったのだ。私が「根本的倒錯」とか「悪意」と呼んだのは、このイロニーの意識のことである。それは、経験的な自己を冷やかに眺める超越論的自己(自意識)である。
  この自己意識はけっして傷つかないし敗北しない。それは経験的な自己や対象を軽蔑しているからである。むろん、こうした「内面」の勝利は「闘争」の回避でしかない。夏目漱石はこうした回避を認めなかったがゆえに、「近代文学」に異和感をもちつづけたのである。漱石固執したような明治十年代の敗北と被限定は国木田独歩のようなイロニーにおいて超越されてしまう。一切の限定性が「内面」において超えられるからである。注意すべきことは、独歩においてそうした固有名をもった「歴史」が超えられてしまうということだ。そこに、「風景」があらわれる。
柄谷行人村上春樹の「風景」--『1973年のピンボール』)

この論の理解には、国木田独歩が、『武蔵野』その他の作品で日本ではじめて「風景」を発見した、とする柄谷の「風景の発見」の説明がいるかもしれない。柄谷は、それまでの日本人が風景を見ているようで実は江戸時代から続く日本三景のような「絵」を見ていたに過ぎなく、無名の風景(加藤典洋のいう「アノニマスな風景」)を「発見」したのは、国木田独歩が最初だと論じていた。そこには、明治十年代から新政府の国家体制が整い始め、言と文の一致による口語文、それとともに発生した「内面」といった近代的な制度の成立が関与していると語る。

 「固有名」の忌避は、村上の初期小説の特徴であったことをあらためて指摘するまでもなく、この論は、初期の村上春樹の作品の本質を言い当てている。また、もしかすると、高橋源一郎の指摘するような、分裂した文体を使い分けるといったことそのものに対する批判も、含まれているのかもしれない。もしそのようなことができるなら、人間の悩みなどなくなる。分裂したものを一人の人間が感じるから、苦悩があるのである。

 もちろん、高橋の指摘するのは、説明しやすい比喩であって、はっきり作品が分かれているのではない。両方に、お互いどちらの尾っぽもついていて、完全に分かれているわけではない。しかし、明らかに分裂を感じているからこそ、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のような作品が生まれたのだろう。そして、それが単なる娯楽小説でないゆえに、そこには深いなにかの表現があったはずなのだ。

  そして、その後、村上春樹は、その格闘を『世界の終わり・・』のように表面に出さずに、内面化、つまり本格的にはじめ、さきほど引用した鈴村和成氏の評にあるように、「アイロニーの頂点において真面目になっ」て、直子と「僕」のその後を描いた長編『ノルウェイの森』を書きはじめるのである。

 この短編集にある作品が書かれたのは、『世界の終わり・・・』の発表より前だが、いわば、その「真面目になっ」てゆく重要な時期の作品である。さきほど引いた鈴村氏の文章をひくと、「フロイトによれば、『戯れの反対は真面目ではない。現実だ』。「この「現実」とは」と柄谷は続ける、「いうまでもなく、「歴史」を意味する」とあるように、「歴史」に、最初に出会おうとしているようにも思える。

 つまり、この短編『螢』で向き合っているものも、柄谷行人のいう、村上春樹が「アイロニーの外見さえ棄て」向き合った「死と愛」にほかならない。

 それは初期の「鼠三部作」でもたびたび出てきていた「直子」という女性、そして「冒険」で失った「鼠」(これは無意識の『螢』での自殺した友人の虚像ともいえないだろうか)の「死」というものから逃れられなかったからではないだろうか。
  
 わたしは、前述したように、この『螢』で、「螢」がなぜでてくるのか、不思議だった。ただ、高野悦子の『二十歳の原点』の再版を知らせるブログ記事に、哲学の路の蛍が触れてあったことにヒントを得た。小林秀雄は、「蛍」に「おつかさん」を見た。村上春樹も、「蛍」に何かを見たのである。それは直子だったともいえるし、ひいてはおそらく60年代後半から70年代にかけ、「祝祭」が何人も生んだ「高野悦子」だったのではないか。

 
 そして、茂木健一郎がいうように、「蛍」というのは、われわれにとって実物であるより「仮想」である。しかし、それは人間とは本質的に無関係な実物よりも、はるかに実在しているなにか、つまり「ことば」だと言ってもいいだろう。

 『脳と仮想』のなかの「第七章 思い出せない記憶」で、茂木はこう書いている。

『悲しい』という言葉を使うとき、私たちは、自分が生まれる前の長い歴史の中で、この言葉を綿々と使ってきた日本語を喋る人たちの体験の集積を担っている。・・・もちろん、自分が生まれる前の過去は、断片的に伝えられる消息をのぞいては、私たちにとっては、仮想するしかない存在である。『悲しい』という言葉を前にして、私たちは、その『悲しい』という言葉にまとわりついている過去の日本語を喋ってきた人たちの体験の総体を、手に取るように眺めることができるわけではない。その意味では、「悲しい」という言葉にまとわりついている過去は、仮想の中にしか存在しない。言葉は、そのようにして、歴史という仮想の系譜を現在の私たちにつなぎ止める結節点となっている。
 (『脳と仮想』新潮文庫 p.197-8)

 
小林秀雄は、『感想』でベルグソンを論じようとして、挫折した後、晩年の大作『本居宣長』に着手する。そこで、小林が立ち向かうのは本居宣長の『古事記伝』における「やまとことば」

つまり、言語としての日本語である。あえて『螢』と旧漢字のタイトルをつけた村上春樹においてはどうか。別に、村上春樹が小林と同じように失敗したわけではない。わたしは、村上も同じ

く、この短編で「日本語」というものに(それは柄谷の言うように「歴史」と同等である)、おそらく作家としてデビュー後はじめて、向き合ったのではないかと、思えるのである。

 でなければ、村上春樹が、いかなる気持ちを『螢』という、古めかしい旧漢字に込めたかが、わからなくなる。

 その小林秀雄は、かつてランボオ論で、こんなことを書いている。

人々の真実の心というものは、自分が世の中で一番好きだと思っている人の事を一番上手に語りたいと希っているものらしいが、そうは行かぬものらしい。
小林秀雄 『ランボオ Ⅱ』)

村上春樹も、ここでそれを「希った」のではないか。それは、小林秀雄にとっては、青春時代に彼を「見舞った事件」であったランボオだった。村上にとっても同様に、『蛍』(ひいては『ノルウェイの森』)で青春を語ろうとしたに違いない。そこに、彼にとっての最初の意識的な「ことば」との出会い、があったのではないだろうか。

 そして、「ことば」とは、茂木健一郎によれば、「歴史という仮想の系譜を現在の私たちにつなぎとめる結節点」なのである。

 最後に、この「結節点」とはなんだろうか。言葉としてわれわれが引きとめられることの前に、さきほどあげた「風景」があるのではないだろうか。これについては、もっと詳しく考察しなければならないが、おそらく「リアリズム」をめぐる、今回書いてきた村上春樹の「文体」の問題は、本当はそこに戻って考えないといけないのかもしれない。これに関し、加藤典洋がこんな言葉を書いているのを紹介して終わりたい。

・・・「風景」は、眼前の現実からのデガージュマン(身の引き離し)によって生じる。ぼく達があの「眼前の現実」に何らかのものを探し、また見出している限り、そこに「風景」は生じていない。ある場所にいき、眼前にひろがる草原に消えた兎を探し、現れてくるかも知れない熊を待ち構えている限り、あるいはそこに落とした鍵を探そうとする限り、そこから安堵のため息か失意のため息としての「やれやれ」は生まれるにせよ、とにかくそこに、「風景」はない。
 しかし、さらにいえば、「風景」はまた眼前のアンガージュマンなしに、やはり成立してないのではないだろうか。
 彼はそこに消えた兎を探すのでもなければ熊を待ち構えるのでもなく、また落とした鍵を探すのでもないのだが、ただそこにとどまり、それを眼前に見ている。この不思議な「とどまる」というアンガージュマンなしにやはり「風景」は存在しないからである。
 彼は何かをさがすのではない。何かを見るのではない。しかし、眼は閉じない。その閉じられない眼に映るものが、目的意識を抜きとられ、生活感を抜きとられたところの彼の世界、「風景」としての世界なのである。
 ぼくの考えでは、『ノルウェイの森』の書き手に、直子の世界と緑の世界の双方が、ともにそのありようこそ違え、「風景」として現れているのは、彼の過去観のせいというより現実感のせいである。
 (『日本風景論』(「まさか」と「やれやれ」)加藤典洋著 講談社文芸文庫 p.44)

*1:この話は、池田典子も、小林の思想を解析するうえで、あげているエピソードである。『メタフィジカル・パンチ』池田典子著、文春文庫