バガボンド・カフェ(@ブッダ・カフェ第32回) 憲法についてPART2の報告

 
前回簡単に案内させていただいたバガボンド・カフェ、いちおう終了したので、簡単に補足的なことを含め感想を書いておきたい。
最初にあきらかなる準備不足で、お配りした資料の内容(部数にも!)に不足があり、言及もうまくできないままになってしまい、参加者諸氏にはお詫びならびに参加のお礼を申しあげます。ありがとうございました。
内容について詳しくは、ここでは書ききれないが、自然に話は「憲法とわたしたちとの関わり」というテーマにたぐりよせられていったように思う。

それは、いかにわたしたちが憲法と日頃関わりが薄く、どちらかというと無関心で、逆に言うと身近に感じられず、コメントをしようとしても、「え〜、では、そうですね…」みたいに変に構えてなかなか言葉として言うのが困難なくらい、疎遠ななにかがある、そのことを再認識させられたのだった。
その点で、かなり貴重だと思われる見解を、今回のバガボンド・カフェの場を提供してくださった、ブッダ・カフェの主催者扉野さんがそのブログに印象的に提示されている。→ブッダ・カフェ 第32回 - ぶろぐ・とふん

憲法とどう関わるか」このことを、これからも考えてみたいと思わさせられた。
思えば、3.11の原発事故直後にも、原子力原発について語るとき、政治的な意見の表明なしに、それを語りがたい空気というか、力みたいなものを感じさせられ、わたしにはそれは自身の判断の保留を許さないいやおうない圧力みたいに感じられ、抵抗すべきものに思われた。
いまもそれは続いていて、同様の力が憲法においても働いており、積極的に政治活動に参加している方は例外として、現代日本人にある程度共通する感じ方であろうと思われる。
いま、憲法改正案が現実味を帯びて政策担当者から連日語られ、特定秘密保護法案も国会で可決されたうえに、安倍総理は昨日、周辺諸国ばかりかアメリカに非難されるのも承知で靖国参拝を行うという時代のただなかで、憲法にどう対していくかを考えるうえで、なぜわたしたちが憲法について語るとき、政治的バイアス、右か左かみたいなステレオタイプな偏見の磁場にからまれてか、率直に思考できないのかを、考えることが重要に思った。

「日本ではずっと憲法を語ることは、左翼として見られることで、教育の場で積極的に教えたり語ることは、現政府に反することとみなされやりにくかった」
前回のバガボンド・カフェで西村さんが述べられた「戦後」(おそらく朝鮮戦争に際し、アメリカの強い要請により自衛隊の前身の警備隊が組織されて、安保条約が結ばれて以降)の実態だ。

今回は、参加者からまた新しい視点として、「憲法には様々なレイヤー(地層)があり、リニア(直線的)に語るやり方では、なんとなく実態が把握できず、効果がないのではないか」といった意見もいただいた。
そこから、デザインやアートの世界での西洋と日本古来のものとの比較〜コンセプショナルな(コンセプトがまずあり体系的に表出される)欧米アートに対し日本的なコンセプトより形の面白さを尊ぶデザイン〜から政治や思想面を見てみることを通じ、憲法に対する日本人の感触を理解する可能性、視点も提示されたりしたのは、大きな実りであるとともに、もう少しそういった視点を場で検討することができたらよかった(一部の人の話が中心になり、わたしのナビがまったく下手くそですみません…。)

憲法は自分になにか人権を奪われるような事態が起こるとか、権力的に弱い立場におかれなと、その意義がなかなかわからない」と西村さんは言っていた。
いずれにせよ、それも憲法のひとつのもっとも本質的なレイヤーなのだろう。
一般的にプロパガンダされる憲法も、そういう顔をもっともわたしたちに向けてきたはずだ。
それはそれとして、いまはそれとは違った地層を探って発見することで、本当に憲法がわたしたちのものとして認識できるかもしれない。(じつはまだそのことは正直、レイヤーという言葉を恥ずかしながらうまく使えないから、実感はつかめないのだが。)
たまたま今回のバガボンド・カフェに際し資料としてそのなかの一節を紹介的に抜粋して配ったエッセイ集がある。
かなり以前の本だが内田樹の『子どもは判ってくれない』だった。
帰ってから、その本の当日紹介したのとは別の箇所に、こんな文章を見つけた。

 有事法制について多くの議論が出る中で、「これほど重要な論件については、できうるかぎりクールでディセントな語り口が必要だ」と説く言論だけが構造的に欠如している。ことが重要であればあるほど「熱くなる」ことを誰も自明として怪しまない。私はこれを悲しむべきことだと思う。
原則的なことを最後にもう一度繰り返しておく。
国益」について、あるいは「国防」について語ろうと望むなら、その人間は、自分の政治的意見に反対する人間をも含めて「国民」を代表する立場を何としても探り当てなければならない。そして、そのような「立場」は決して単一の政治的意見に集約されることはない。それは「異論が出会い、共存する場」を確保する終わりなき努力そのもののことだからである。
内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫2006年「熱く戦争を語ってはいけない」)

この文章は、すごく平易に書かれているが、深く難解だ。これを理解するには数々の内田先生の他の文章と関連させ、解釈してみないといけないだろう。
しかし、憲法を語るとき、必要な努力の性質を、この文章はうまく的確に述べているような気がする。
そして、扉野さんがブログでコメントされていた現天皇陛下の「語り口」が、従来のバイアスがかかった憲法に関する誰かのコメントと異なる、憲法を身近においた人を感じさせるとすれば、「自分の政治的意見に反対する人間をも含めて『国民』を代表する立場」に立ったコメントであり、語り口だったからではないだろうか。